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水稲荷と穴八八幡70 地形と浮世絵

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2018.3.20 水稲荷と穴八八幡70 地形と浮世絵

 

浮世絵には今は見えない海が描かれていることが多く、それも私が地形の変化ということについて考え始めたきっかけの一つだったのですが、先日の新聞には↓の浮世絵が載っていました。


イメージ 1

 

 ↑は葛飾北斎の「富嶽三十六景 礫川雪の旦」で、礫川(こいしかわ)は現在の文京区小石川のことであり、この絵は、雪の積もった朝、牛天神の境内の茶店から雪見をする人たちを描いているそうで、牛天神から銀世界となった江戸の町と遠くにそびえる富士山を眺めている図だそうです。

 

牛天神の麓は鎌倉時代には海だったのですが、この絵に描かれている牛天神から見えている海はどこの海(入り江)なのでしょうね?今は文京区春日1丁目52にある牛天神の上から西南西にある富士山の方向を見ても海や入り江は見えないのですが・・・・・・

 

「中景の流れは江戸川であろう」という解説がありましたが、江戸川は牛天神の東にあるのですから、富士山の方向に見えるはずはありません(^o^)

 

北斎は、17601849年の人ですが、「富嶽三十六景」は70歳を過ぎてから取り組んだ作品だそうですから、この絵が描かれたのは18191849年の間でしょう。すると19世紀半ば頃まで、東京湾の入り江は牛天神から見えるところにあったようです。


この絵に描かれている海は近景のようですから、牛天神の麓にあった頼朝が船で来た入り江でしょうか、それともその西の藤原秀郷が船で来た早稲田にあった入り江でしょうか。どちらにしても江戸時代にはまだ牛天神から見える所に入り江があったようです。

 

明治になっても、海は本郷の森鴎外宅(観潮楼 現・文京区立本郷図書館)から見えるところにあったのですが(^o^)、ここから見えた海は富士山の方向ではなく、本郷台の南にあった江戸湾の海でしょう(^o^)

https://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/43578678.html

 

ずいぶん前に、観潮楼からは海が見えたということを知った時、どの方向にどんな風に見えたのだろう?と知りたくて本郷図書館まで行ってみました(^o^)。もちろん今は海など全く見えませんが、台地の下に平らに広がる家々を見て、本郷台の端(現・東大)に縄文人が暮らし、貝塚ができた頃には台地の下は海だったのだということが実感できました\(^o^)/。

 

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

ところで今日は、薩摩硫黄島で火山性地震が増加し、地下のマグマの動きを示すとされる火山性微動も観測されるなど、火山活動が高まってきているというニュースがありました。

 

薩摩硫黄島は薩摩半島から約50km南にある鬼界カルデラ(東西23 km、南北16 km)の縁にある東西6 km、南北3 kmの火山島で、この鬼界カルデラは、7300年前に完新世では国内最大規模の噴火(アカホヤ噴火)を起こして九州の縄文文化を壊滅させたのですよね<(_ _)>

https://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/43520992.html

 

 
 

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