「イスラエル人にとって都合の良いカミサマを創ったモーセ」はイスラエル人だったのではないか?と確かめてみたら、「モーセは紀元前16世紀または紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者」だそうですが、モーセの実在と出エジプトの物語の信憑性は、考古学者およびエジプト学者、聖書批評学者の間では疑問視されているのだそうです。エェ~!! そうなの???
けれど「その他の歴史学者はモーセに帰せられる伝記の詳細さとエジプトの背景は、青銅器時代の終わりに向かうカナンにおけるヘブライ部族の統合に関わった歴史的、政治的、宗教的指導者が実在したことを暗示していると擁護している」のだそうです。
古代の巫女にしてもモーセにしても、「神の言葉を聞いた」というのは本人が言っていることであって、それが本当かどうかを第三者が確かめるすべは無いわけですが、「神の言葉を聞いた」というモーセ自身の実在も疑わしいのですね<(_ _)>。
すると「神の言葉」も、それを聞いたという預言者(「霊感により啓示された神意 を伝達し、あるいは解釈して神と人とを仲介する者」のことだそうです)のモーセも、後の人の創作かもしれないということのようですが、『出エジプト記』も『古事記』も全くの作り話を記しているわけではなく、創作と事実がない交ぜになっているので、どちらの立場を取る人もお互いに「全部史実」だとも「全くの創作(ウソ)」だとも言い切れないのですよね。
そのため、「文献に書かれていることは全て事実であり、史実である」と信じる(信じたい)歴史学者や神学者は、矛盾している「創作」の部分を「○○は××だとすればよい」などとすることでむりやりつじつまを合わせようとし、物証を根拠にする考古学者、エジプト学者、聖書批評学者は、物証を示すことができないものは「事実ではない」と考えるのでしょう。けれど「全部が本当のこと」でも、「全部がウソ」でもないのです。
このオハナシの元になっているイスラエル人がエジプト人の奴隷にされていたことや、誰か強力な指導者が現れてイスラエル人をまとめ、ファラオと交渉してイスラエル人を率いてエジプトを出て行ったことや、その頃のエジプトは蝗の大群による飢饉などさまざまな災厄に見舞われていたというような事実が実際にあり、それが「モーセに帰せられる伝記の詳細さとエジプトの背景」なのだろうと思います。
4世紀末の天津族の侵略と征服という事実を「神代の大国主の国譲り」や「紀元前の神武の東征」というオハナシに仕立てて7世紀に『古事記』の神話を作った人たちがいたように、後世に実際の出来事を利用して「神と預言者モーセと出エジプト」のオハナシを作った人たちがいたということではないでしょうか。
そして、紀元前1600~1300年頃のそのオハナシ(旧約聖書)に、さらに後世の人たちが新しいオハナシを付け加えて「新約聖書」を作り、そのことによって生じてしまった矛盾は、「聖霊とゴッド(父なる神)とイエス・キリスト(神の子)とは同格である」と公会議決めることでつじつまを合わせたということのようですね。
ネコビタイ便り
気温が上がったので、ちっちゃな、ちっちゃな原種チューリップの蕾も出てきました\(^o^)/。