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水稲荷と穴八幡60 権力者と道

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2018.3.6 水稲荷と穴八幡60 権力者と道
 
目白台の上から台の下へ降りる道は、どれも細い急傾斜の坂道だったようですが、その中で目白通りだけがいち早く明治20年代に新たな緩傾斜の広い道として拓かれたのは、皇族の通行のためだったようです。「おわい坂と異名を取っているような道をお通り頂くわけにはいかない」ということだったのでしょうね(^_-)
 
江戸時代には将軍が日光参詣や鷹狩りに行くための「お成り道」や、大名が参勤交代で通る道が整備されていたようですが、道が整備されるのは、まずは時の権力者のためだったようです。
 
町や道は、いつでもどこの国でも時の権力者の住む館や城や宮殿を中心に作られていたのです。道が整備されるとすれば、まずはその権力者の利便と威信のためだったのでしょうから、放射道路も環状道路も当然城や宮殿を中心に計画され造られたはずで、権力者の住まいが人もまばらな山の中や寂しい町外れにあったはずはないのです。
 
東京では、「東京都市計画道路」の放射線は1号から36号まで、環状線は1号から8号まであるようですが、それらの中心は当然皇居で、環状1号は内堀通り、環状2号は外堀通りであり、4号線は今造っているところですね(^o^)6号線は山手通り、7号線、8号線はそのまま環七、環八と呼ばれています。
 
話は変わりますが、歴史学者さんたちは、日本最古の官道は「山の辺の道」だとしていますよね。「山の辺の道」が実際にどんな所を通っているのかを知らなかった私はそれを素直に信じていたのですが、奈良に行ってみようと地図を調べて驚きました。山の辺の道が通っていたのは、王(天皇)が住んでいた飛鳥や平城京からはずっと離れた天理市から桜井市にかけての山裾だったのです。なぜそんな所に「日本最古の官道」があるのだろう?
 
このブログを始めたころの私は奈良を全く知らず、関東地方の現場検証を元に推理と謎解きをしていたのですが、その推理が奈良まで繋がっていってしまったので、2010年に現場検証に行ってみることにしました(^o^)。やはり現場には行ってみるものですね!ほんの23日だったのですが、本当にいろいろなことが分かりました\(^o^)/。その顛末は↓の辺りから延々と書いています。
 
「日本最古の官道」というのは飛鳥時代の道なのかな?と思ったのですが、初めて山の辺の道に立って思ったのは、やはり飛鳥の都の王や官人たちがわざわざここに官道を造る理由があったとは思えないということでした。
 
山の辺の道は、町からは遠く離れた高い所を通っていて、周りは畑や果樹園や山なのです。

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これが本当に官道であるのなら、この道が造られた当時の王はこの高さに住んでいて、都や官庁もこの近くにあったのではないか?この道はその王のために造られた道だったのではないか?それではその王とはいつ頃の誰で、その王の住まいや王の都はどこにあったのだろう?と考えたことから「古代の地形から『記紀』の謎を解く」に書いた大国主の歴史や、崇神天皇が滅ぼしたトミノナガスネヒコが最後の大国主であったことや、纒向遺跡が歴代の大国主の都だったことや箸墓古墳やその付近の巨大前方後円墳は、大国主とその一族の墓であることなどが分かってきたのです\(^o^)/。
 
 
先ほどのニュースによると、新燃岳が今日爆発的噴火を起こし、溶岩ドームが形成されてマグマ噴火に移行しつつあるそうです<(_ _)><(_ _)><(_ _)>
この噴火が「巨大災害 MEGA DISASTER」に繋がるものでなければいいのですけれど・・・・・
 

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