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水稲荷と穴八八幡59 目白坂 

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2018.3.5 水稲荷と穴八八幡59 目白坂 
 
椿山荘も神田川に面した目白台の端(はな)にあって、この台地のハケの斜面を庭園に利用しているのですが、ここは南北朝時代から椿が自生する「椿山(つばきやま)という景勝地だったそうですから、ここも「山」と呼ばれていたのですね。
 
ここは江戸時代には久留里藩黒田氏の下屋敷で、明治になると明治の元勲である山縣有朋の屋敷となり、1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田財閥の二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受けて東京での別邸としたそうですから、この台地の端もやはり大名屋敷→明治維新で貴族になった人の屋敷→財閥の屋敷という同じ経過を辿っていたわけですね。現在は藤田観光が経営する宴会場「椿山荘」と「フォーシーズンズホテル椿山荘東京」になっています。
 
椿山荘は、現在は広い目白通りに面していますが、古い目白通りはその少し南側を椿山荘に沿って川のほうへハケを下る細い道でした。現在の車の通る目白通りの広く緩やかな坂は、明治20年代の半ば頃に新しく造られた「目白新坂」であって、本来の目白坂は小布施坂や日無坂のような細く急な坂道だったのです。この坂がどのくらい急だったのかというと・・・・
 
ずっと以前、『練馬区史』の音訳テープの校正をしたことがあるのですが、その時、この道は練馬を通って江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)を結ぶ、江戸の西北部の農村から農作物を江戸の市場に運んでいた古道で、「清戸道」と呼ばれていたということを知りました。

56里(約2024km)離れた清戸村の農民は、早暁に農作物を積んだ荷車を引いて江戸に向かい、野菜を売った後、帰りの荷車には江戸市中で汲み取った下肥を積んで戻ったのだそうですが、庶民よりいいものを食べていた武家の下肥を、農家は買い取ったり引き換えに野菜を置いてきたりしていたそうです。
 
でもこの目白坂は急すぎて、下肥を積んだ荷車は上ることができなかったので、坂の下には荷車を押して駄賃を貰う立ちん坊と呼ばれる男たちがいて押し上げていたのだそうですが、坂が急で荷車がよくひっくり返ったため、この坂は別名「おわい坂」と呼ばれていたのだそうです。
 

ところがこの道は、明治になると皇族が学習院へ通うために通る道になったので、そのために新坂が拓かれることになったのだそうです(^o^)。それを読んで「それは本当なのかな?その坂はどこにあって、どれほど急な坂なのだろう?」と興味を持ち、目白坂を見に行ってみました(^_^.)


その時には急ではあっても舗装されていたので、荷車がひっくり返るほどだとは思わなかったのですが、小布施坂や日無坂や富士見坂を歩いてみた今は、重い荷車を引いてあんな急な坂を上り下りしていたのかと信じられないような気がします(^o^)
 
富士見坂 
イメージ 1

日無坂 
イメージ 2

小布施坂
イメージ 3

 
↓の幸神社の説明に「清土道」とあるのを見て、すっかり忘れていた「清戸道」と「目白坂」と「おわい坂」のエピソードを思い出したのですが、歴史の本を読んで「本当かな?どんな所なのだろう?」と思ったら現場検証に行ってみるようになったのは、この時からだったような・・・・(^o^)。でも、この説明板が設置されたのはつい最近で、平成278月なのですね。
 
イメージ 4

 
根津が海で「津」だったことも、目白台の下が入り江だったことも『文京区史』に記されているようですが、作り話やつじつま合わせではなく、当時の地形が何気なく記されている地域資料って本当に面白いのですよね\(^o^)/。
 
目白坂に興味を持った頃にはまだ古代の地形のことは考えてもいなくて、神社にも興味がなかったので、目白坂の上に神社があったことにも気が付かなかったのですが、あちこち現場検証をしているうちに、見ようと思わなかったものまでが見えてくるようになってきたのです(^o^)
 
 

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