2015.10.13 埼玉の大地のふしぎ
ここまで、文献や学説からではなく、地形や遺跡などを見て感じた疑問から地形の変化と古代史の謎を推理してきたのですが、その推理のために「自分の興味の周辺を茫漠と広く」調べているうちに分子生物学やプレートテクトニクスなどの最新の理論に辿りつき、辿りついてみれば最新の理論がここまでの推理の裏付けになってくれていました\(^o^)/。
「古代の地形から『記紀』の謎を解く」を書く前、遺跡や貝塚などから埼玉・群馬は海辺だったのではないか?と考えていたのですが、プレートテクトニクスをまだ知らなかったので、それだけではその推理に確信を持つことができず<(_ _)>、確証を求めて時々埼玉や群馬に出かけていました。
その頃、長瀞の自然博物館で深谷市から出土したという体長12mの巨大なサメ「カルカルドン・メガロドン」の顎の骨を見て「埼玉はやっぱり海だったんだ!」と確信はできたのですが・・・・・
その当時は、埼玉県の海が巨大ザメやクジラの泳ぐような深い海だったとは考えてもいなかったので驚き、なぜ巨大ザメが埼玉にいたのだろう?埼玉ってどういう土地だったのだろう?と疑問がふくらんで、博物館で『埼玉の大地のふしぎ』という本を買ってきました。
埼玉の大地のふしぎ
ところがその頃は、埼玉・群馬の地理や地形をほとんど知らなかったうえ、プレートテクトニクスも中央構造線も知らず、岩石の知識もなかったので、本を見ても書かれていることがあまりピンとこなくて6年間もツンドクにしていたのですが(^_^.)、ここにきてそれらが全部繋がり始めたようです\(^o^)/。「ユーレカ・モーメント」の瞬間が近づいてきたのかな(^_-)?
博物館に出かけた時には、長瀞は岩畳が有名だということは知っていたもののその岩畳がどこにあるのかは知らなかったので、とりあえず近くの荒川の川原におりてみて、小さな石を幾つか拾ってきました(^o^)。
長瀞の荒川の川原
川原で拾った石
今回は中央構造博物館で、大鹿村にも埼玉県の秩父や群馬県の三波川の地層と同じ三波川帯と秩父帯があり、その地層はプレートの移動によって運ばれてきて付加体になったものだということが分かったので、この付近の地形と三波川と三波石がどんなものなのかを見てこようと思ったのです(^o^)。
三波石は緑色で、塩湯の湧く大鹿村には三波川帯と三波石があり、三波川と三波石のある群馬には温泉が多く、会津の塩湯はクリーンタフと呼ばれる緑色の石の層から湧くことなどが分かったので、これらの間には相互に関連があるのかないのか?緑色の三波石と、緑色の長瀞の石と、緑色の会津のグリーンタフとは関係があるのかないのか?考えてみなくっちゃ♪