2015.10.10 守屋山と諏訪大社
杖突峠から中央構造線→プレートテクトニクス→塩→地層→ニュートリノとまたとめどなく脱線していってしまいました。
考えている途中で分からないことや知らないことが出てくると、そのことについて調べて始めてしまい、なにか分かって来るとそれを確かめに行きたくなってしまうので、なかなか先へ進めないのですが<(_ _)>、そういった一見直接の関係はなさそうな知識や行動がいつかどこかで繋がった時に「ユーレカ・モーメント」が訪れてくるのです\(^o^)/。
そのことについて、朝刊に阿刀田高氏のこんなお話が載っていました。「遠回りのような気がするけれども、自分の興味の周辺を茫漠と広く知っておくこと。それが結局、本当の意味での知識でしょう。IT機器の発達で知識や情報を得やすくなったけれど、自分が新しいものを考えるときには、自分の脳みそで茫漠とした海から拾ってこなければダメなのです。」・・・これは読書の必要性についてのお話でしたが(^o^)。
このブログの行き当たりばったりの脱線も、阿刀田氏風にいえば「茫漠とした知識を」、梶田氏風にいえば「知の地平線を」広げるためだということで正当化できそうです\(^o^)/。
さて、152号線に戻ることにして
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/42437416.htmlの続きです。
とにかく大鹿村に行ってみようとルートに152号線を選んで走り出した時にはそこが中央構造線だということも、神社との位置関係なども全然分かっていなかったのですが<(_ _)>、帰って来てから地図を見て、この道は諏訪大社上社の前宮の背後の山を登る道で、その山が、歴史学者さんたちが諏訪大社のご神体だとしている「守屋山」だったということが分かりました(^o^)。
でも、諏訪大社が守屋山をご神体として祀っているというのは、例によって「本殿がないのは山をご神体として祀っているからだとすればよい」という歴史学者さんたちの御都合主義のつじつま合わせであって、諏訪大社の神長官・守矢氏が78代に渡って祀ってきたのは山などではなく、「ミシャグチ様」だったのですけれどね(^_-)。
「ミシャグチ様」を祀る神長官家の祖廟
祈祷殿
神社とは名負いの氏(子孫)が祖先を祀った祖廟であって、山を祀るために社殿を造り、神主を置いて祝詞(のりと)をあげていたわけではないのです。そもそも「祝詞」とは先祖の徳や功績を讃えるために奏上するものであって、山に向かって唱えるものではなかったのですし、山が神様であるなら、誰が神主になってもいいはずでしょう(^_-)?
『古事記』は、国譲りの時に大国主の息子のタケミナカタがタケミカヅチに負けて諏訪に逃げて行ったと記しているので、現在は上社も下社も祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)とそのお后の八坂刀売神(やさかとめのかみ)だということになっているようですが、神長官家がタケミナカタを祀っていたことはないようです(^_^.)。
『記紀』を信奉する学者さんたちは既定の事実として「諏訪大社の祭神はタケミナカタ」としているようですが、諏訪大社の祭神は本当に古代からタケミナカタだったのでしょうか?神長官家が祖先を祀っていた「南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)」が「諏訪大社」と改称されたのは明治の初めだそうですから、この時に「ミシャグチ様」を祀っていた神長官を廃した明治政府の神祇官が「南方刀美神社」を「諏訪大社」と改称してタケミナカタを祭神に据えたのではないでしょうか。
いずれにしても、明治までの祭神は「南方刀美神(みなかたとみのかみ=ミシャグチ様?)」で、明治以降は「タケミナカタ」なのですから、「南方刀美神社」だった時も、諏訪大社に改称されてからも、この神社が歴史学者さんたちの言うように守屋山を神として祀っていたことは一度もないようです(^_-)。