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2018.1.14 水稲荷と穴八幡10

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2018.1.14 水稲荷と穴八幡10

 
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↑の安政31856)年の地図を見て「おや?」と思ったのですが、「高田馬場」は高田馬場駅の方ではなく、早稲田の清水家下屋敷のすぐ南にあったのですね(この地図は下が北になっています)。水稲荷神社の表参道に「堀部安兵衛之碑」が建っていたのは、堀部安兵衛の仇討ちの舞台がこの辺りだったからのようです(^o^)
 

堀部安兵衛之碑

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堀部安兵衛は、八丁堀から走ってきて叔父の助太刀をし、18人を切ったことになっているそうですが、日々走る訓練に邁進している駅伝選手にだって、着物に刀を差して草履や草鞋で長距離を走って来るなんて無理ですよね(^o^)。その上その足で18人を切るなんて不可能でしょう

 

八丁堀から走ってきたというのはウソで、すぐ近くから来たか、近くに「八丁堀」という地名の所があったのではないかと思ったのですが(^_-)、「18人切り」と書いたのは瓦版屋で実際は3人だったようですし、八丁堀から走ってきたことにしたのは講談師で、「穴八幡参詣の栞」によれば、安兵衛は八丁堀からではなく牛込納戸町から来たのだそうで、馬場下町の小倉屋酒店には安兵衛が息継ぎに酒を呑んだという一升枡が伝えられているそうで(^o^)

 

でも、作家で義士研究家の佐々木杜太郎が調査し発見された『細川侯爵家文庫』に所蔵されている「二月二十一日高田馬場喧嘩之事」には、安兵衛は叔父と共に決闘場に向かったと記されているそうですから、遅れて牛込納戸町から駆けつけたというのも創作(ウソ)かもしれませんね(^_-)

 

『古事記』や、その解釈書の『古事記伝』や、『古事記伝』を元に何の検証もせずに荒唐無稽な「神話」のつじつま合わせをしている歴史研究家や歴史学者さんたちを見ていると、歴史家とは小説家や講談師と同じように血湧き肉踊るオハナシを作る人で、歴史研究家や歴史学者とは、解釈によってそのオハナシのつじつまを合わせることをオシゴトにしている人たちのように見えるのですが、歴史学者さんたちが歴史書として信奉している『古事記伝』を書いた本居宣長は、歴史家でも歴史研究家でも歴史学者でもなく国学者だったそうですよ(^_-)

 



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