「水稲荷」の旧社地に行ってみて、「富塚跡」とこの辺りの地形とこの台地の縁には「冨塚古墳」を含む古墳群があったらしいことが分かったのですが、冨塚古墳が富士塚だったのかどうかは分かりませんでした<(_ _)>。名所図会に描かれている(多少誇張されているとしても)高く聳える富士塚が、現在地にある小さな「冨塚古墳」と同じものとは思えませんが、他に塚らしいものはありませんでしたし・・・・・・。
富塚 古墳
「富塚」は「富塚古墳」で、富士塚は別の場所にあるのか?境内にあるという富士塚は移されたものなのか、それとも以前からそこにあったものなのか?なんだかよく分かりません<(_ _)>。
その富士塚は、安永9(1780)年に築かれたもので、富士講の人たちが富士山頂の岩や土を運んで、9年5ヶ月かけて築いた高さ10mの塚だそうなので、境内にあるという富士塚が1780年に造られたものであるなら、手持ちの安政3(1856)年の江戸の地図に載っているはずだと思って調べてみると、この地図には清水家の守護神を祀っていたとされる三島社は「清水御屋形」の右側に記されていますが、高田富士は記されていません。ここにある高田富士は1780年に造られたものではないようですし、この地図では三島社は清水家の敷地の外になっていますから、清水家が祀っていた神社ではないようです。
Wikipedia には「境内にある「高田富士」(戸塚富士あるいは富塚富士とも)は早稲田大学拡張工事の際に、同大学の構内にあった江戸中最古の富士塚を移築したものである。」と記されていましたから、「1780年に造られた江戸市中最大最古の富士塚」というのは、移転前の旧社地にあった富士塚のことで、今の高田富士は移転後に改めて現在地に造られたものなのですね。
けれど、先日行ってみた時、境内には10mもの高さの塚のようなものは見当たらなかったので、それではその富士塚はいったいどこにあったのだろう?と調べてみたら、↓の記事が見つかりました。
↑の記事を見ると、富士塚は表参道の階段を上りきってすぐの右手にあったようです。私は鳥居の内が境内で参道の右手は甘泉園なのだと思ったのですが、そこも境内だったようです。でも、10mもの高さがあるはずの塚が見えなかったということは、年に2日間だけの開放日以外は外からは見えないようになっているということなのでしょうか。↑の記事を書いた方も、最初は富塚古墳が高田富士なのだと思われたようです。