2018.1.11 水稲荷と穴八幡7
江戸名所図会といえば、江戸時代の高田富士は早稲田大学のどこにあったのだろう?今はどこにあるのだろう?と水稲荷神社のH.Pを見てみたら、江戸名所図会に描かれた旧社地の絵がありました(^o^)。
ここには、「中央付近の小高い丘の上にあるのが、水稲荷神社(高田稲荷)で、ここは現在の早稲田大学9号館裏のあたりです。右上の山は、高田富士で、水稲荷神社(高田稲荷)とともに、昭和38年(1963)に西早稲田3丁目の現在地に移転しました。」と記されています(^o^)。
この図を見ると、やはり神社や古墳や富士塚か造られていた所は台地の縁で、上からは見晴らしがよく、下からは遠くからでもよく目立つ場所だったようです。
でも、富塚跡には昭和41年に移転したと記されていたのに、ここには昭和38年と記されていますね<(_ _)>。
どちらが本当なのでしょう?これ一つを見ても、「文献」などに書いてあることを検証もせずに頭から信じてはならないことが分かりますよね(^_-)。いわゆる「文献」とされているものには、勘違いや書き間違いなどだけではなく、自分の先祖は天から降ってきたカミサマだとするカミサマから始まる系図だとか、この神社の創建は神代であるとかといった意図的なウソがてんこ盛りなのですから(^o^)。
「遷座の記」・「富塚跡」・水稲荷神社のH.Pの記述を総合すると、昭和34年に早稲田大学から土地を交換してもらいたいという話が出て、大学・神社・氏子間で足掛け5年に渡る話し合いがあり、合意ができて移転が始まったのが38年、移転が完了して大学の拡張工事が始まったのが41年ということでしょうか?これはまだ確認はしたわけではないので推理ですが(^_-)。「遷座の記」によれば、この移転に際して、神社側は甘泉園にもとの社地より1300余坪多い土地を取得したようです。
水稲荷の由緒では、鎮守府将軍・俵藤太秀郷が富塚の上に稲荷大明神を勧請したので、「冨塚稲荷」「将軍稲荷」と呼ばれていたとされていますが、水稲荷は冨塚古墳の上にあったのだそうですから、その祠は、元は稲荷社ではなく古墳時代にこの地を支配していた富塚古墳の被葬者を祀った祠だったのではないでしょうか。
秀郷は本当にこの辺りに来たことがあるのだろうか?と思って俵藤太秀郷を調べてみると、「平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられた」そうですから、実際にここに来たことはあるのかもしれません。でも、来たのは本当だったとしても、秀郷は他人の墓(古墳)の上にあった祠に稲荷を勧請したりはしなかっただろうと私は思うのですが(^_-)。
由緒によれば、この「富塚稲荷」「将軍稲荷」と呼ばれていた神社は、元禄15年(1702年)に霊水が湧き出して眼病に効くと評判になったので、「水稲荷」と改称したのだそうです。でも、移転先でも眼病に効く霊水は湧いたのでしょうか?
古墳の上にあった祠は、俵藤太秀郷とも稲荷とも関係ないのではないかと私は思うのですが(^_-)、そもそも「勧請する」って何をどうすることなのでしょうね???