Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

水稲荷と穴八幡6

2018.1.10 水稲荷と穴八幡6

 

地形を見ると、穴八幡や水稲荷の旧社地や古墳があったのは台地の縁で、ここから土地は南に向かって低くなり、その向こうはまた、戸山の方へと高くなっているようですから、この低地は浅い谷になっていたようです。

 

穴八幡では一陽来復のお札ではなく、何か昔のことが書いてあるのではないかと思って「穴八幡参詣の栞」を購入してきたのですが(^_-)、家に帰って読んでみると、いろいろと興味深いことが記されていました。

 

この栞によれば、神社の南は、昔は東京湾が深く入り込んでいた海で、穴八幡の正面石段の下辺りに船着場があり、その付近には昭和の初年まで「俵藤太秀郷船繋松」があったそうです。この辺りの地名である「戸塚」は「渡戸塚」の、対岸の戸山は「渡戸山」の略ではないかとも記されていました。船着場があったのですから、ここは渡し場だったのでしょうね。

 

でも、江戸、水戸、瀬戸などの地名はあちこちの同じような地形の所にありますから、それらは固有名詞ではなく地形を表した地名で、この戸は入海や港などの狭い海のことなのではないでしょうか。「速吸の戸」などというものもありますしね(^o^)。戸山は入海に面した小高い所、戸塚は入海に面した塚という意味かもしれません。

 

ここが遠浅の入海に面した台地の縁だったのであれば、「冨塚古墳」を含む「十塚」「百八塚」などと呼ばれていた古墳群があった理由は納得できますね(^o^)。冨塚の地続きの穴八幡の辺りにも古墳があったと思われますから、その被葬者を祀った祖廟がそこにあったことが穴八幡の始まりなのではないでしょうか(^o^)

 

由緒には、寛永18年に南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現したので「穴八幡」と呼ばれるようになったと記されていましたが、この「穴」は古墳の石室で、中から豪華な副葬品が出土したため「神穴」とされたのかもしれませんね(^_-)

 

「船繋松」といえば、文京区春日の牛天神の下にも、源頼朝が船を繋いだという頼朝船繋松」の伝承があったのですが、それを見た時私は、なぜ文京区に船繋松があるのだろう?頼朝はここまでどうやって船で来たのだろう?と疑問に思いました(^o^)

 

牛天神 社殿はこの急な石段の上にあります


Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1

 
Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2
 
 

神社の由緒にはよく海のことが記されていることや、船を繋いだという伝承かあることなどを疑問に思い、神社と海の関係について考えているうちに古代の海と地形が今とは違っていたことが分かってきて、古代史の謎が解けてきたのですが、このことについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」を御参照ください。

 

当時は「頼朝船繋松」しか知らなかったのですが、穴八幡にも「秀郷船繋松」があったことが分かったので、この二つの神社の標高と地形を比べてみると、どちらも社殿があるのは標高22mの台地の上であり、船を繋いだという神社の下は標高10mほどでした。平安末~鎌倉時代の海面は今より10mくらい高い所にあったようですね。

 

けれど江戸名所図会には、穴八幡の台地の下には海ではなく水田が描かれていますから、秀郷が来た平安末には入海だった台地の下は、この絵が描かれた頃には水田地帯になっていたようです。早稲田という地名は、たぶんここが水田になってから付けられたのでしょうね(^o^)

 
Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3

 

浮世絵や江戸名所図会は、当時の海岸線がどの辺りにあったのかを教えてくれる貴重な資料なのです\(^o^)/ \(^o^)/ \(^o^)/ 。


 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles