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水稲荷と穴八幡5

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2018.1.9 水稲荷と穴八幡5
 
江戸時代の地図には水稲荷の社地に「富士」と記されていたのですが、現在の地図では水稲荷の旧社地だった早稲田大学の9号館の辺りには「富塚跡」と記されているので、「富塚跡」は古墳の跡で富士塚の跡でもあるのかどうかを確かめに「富塚跡」と道向かいにある穴八幡神社に行ってみることにしました(^o^)
 
私はこれまで早稲田の辺りの地形も、早稲田に古墳があったということも全く知らなかったので<(_ _)>、行ってみればその辺りの地形や、水稲荷の旧社地に古墳があった理由が分かるのではないかと思ったのです。
 
名所図会に描かれた江戸時代の穴八幡と別当・放生寺
 
イメージ 1

 
今は神社がブームですが、仏教が隆盛だった江戸時代には神社には宮司がいなかったようで、放生寺の僧侶が神社を管理していて、祝詞ではなく神前読経など仏式で祭祀をしていたのだそうですが(^o^)、カミやホトケは、神仏習合では「同じものだと考えればよい」とされたり、廃仏毀釈では「ホトケはいらない」と廃棄されたり、とニンゲンの都合次第でどうにでもなるもののようです。八幡神というカミサマ自体、応神天皇というニンゲンにされたり、八幡大菩薩というホトケにされたりしていますしね(^_-)
 
このお寺と神社が、現在も一体なのか別経営になっているのかは分かりませんが、どちらも赤と緑の中華風の派手な色合いになっていて、一陽来復のお札は、お寺でも神社でも頒布しているようですから、カミでもホトケでもご利益は同じだということのようです(^o^)
 
↓の中国風のカミサマの絵は放生寺の入り口にあったのですが、お寺でもカミサマを祀っているということなのでしょうか?お札には「観音の秘法」を修してあるそうですが、「歳徳神は観音だと考えてよい」ということなのかな~?
 
イメージ 2

放生寺の入り口

イメージ 3

 
奥が放生寺で、右手の高い方が穴八幡になっています。穴八幡の早稲田通りを挟んだ東側が水稲荷の旧社地で、「富塚跡」は早稲田通りからすぐ見える所にあり、土地はそこから急激に低くなっていたようですから、この古墳と2つの神社は台地の縁に造られていたようですね。
 
 
 
イメージ 4

 
イメージ 5

 
↑を見ると、この台地の縁には古墳群があったようですね。


「遷座の記」には昭和34年と記されていたのに、ここには昭和41年に移転したと書いてあるので?と思ったのですが、土地交換の話が出たのが34年で、それから5年の交渉期間があり、移転が終わったのが41年だったということのようです。


 

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