2018.1.8 水稲荷と穴八幡4
富士塚(高田富士)はどこにあるのだろう?と社殿の後ろに回ってみると、石室に使われていたような平たい石を組んだ祠と溶岩を積んだような塚があって「戸塚の町名の起源になった富塚古墳」と記されていました。
この「富塚古墳」が地図にあった「高田富士」なのでしょうか?この古墳は、古墳時代からここにあって、ここが清水家の下屋敷だった頃にも邸内にあったのでしょうか???
「遷座の記」には、旧社地にあったものを全て移したと記されていたので、現在の地図で旧社地であった早稲田大学9号館の辺りを見てみると、宝泉寺の北側に墓地に接して早稲田大学9号館があり、9号館のすぐ近くに「富塚跡」と記されていますから、現在の水稲荷神社の社殿裏にある「富塚古墳」は、元の社地にあった古墳を現在地に移した(つまり、昭和34年にここに造った)もので、清水家の邸内にあったわけではないようです。
この富塚古墳の右側の麓には石室のようなものが造ってありましたから、もとの社地にあった富塚古墳もこのように石室が開口していたということなのでしょうね。
古墳は江戸時代にはよく富士塚として使われていたようです。
古墳を富士塚に仕立てた北区の十条富士塚
旧社地では富塚古墳が富士塚として使われていたので、新社地でも富塚古墳を造って富士塚にしたのだろうと思ったのですが、これは違ったようです。
水稲荷神社のしおりによると、ここにある富士塚は、安永9(1780)年に築かれた江戸市中最大最古の富士塚だそうですから、富塚古墳とはまったく別のもののようです。そういえば、富塚古墳には「高田富士」とは書いてありませんでしたし、富士塚ならあるはずの「○合目」の表示もありませんでしたし、祠の前には狐の人形が置いてありましたから祠は浅間神社ではなく稲荷社だったようですし・・・・・
でも、水稲荷の境内には他に塚のようなものは見当たらなかったのですが、高田富士はいったいどこにあったのでしょうね???