水稲荷の境内には大きな「遷座之碑」がありました。
遷座之碑
あれ?この神社は初めからここにあったのではなかったのか?それではいつ、どこから、なぜ、ここに遷ってきたのだろう?と後ろの碑文を読んでみると、この神社は、元はここより南東の宝泉寺の北側にあり、昭和34年に早稲田大学と敷地を交換してここに遷ってきたと記されていました。元の社地は、今は早稲田大学の構内になっているようです。
遷座の記
徳川御三卿の清水家の下屋敷だったこの一帯は、明治30年頃に相馬家の所有となり、昭和13年に早稲田大学に移譲されていたのだそうです。元の水稲荷の社地は宝泉寺の北側の早稲田大学に接する位置にあったので、昭和32年に土地を交換して元の水稲荷が大学の敷地になり、神社は大学の所有地だったこの台地の上に遷ってきたということなのですね。参道がなんだか不自然だったのは、昭和34年に遷って来たときに造られたものだからだったようです。
水稲荷神社には表参道の奥の社殿の横にも鳥居があって、そこには「奉献 早稲田大学」と記されていたのですが、この神社と早稲田大学との間にはそういう関係があったのですね。何事にも「・・・と考えればよい」というような恣意的なつじつま合わせではなく、ちゃんとした論理的な因果関係があるのです(^_-)。
↓は江戸時代の地図ですが、当時水稲荷神社は穴八幡神社の道向かいにあったのです。
この地図は北が下になっています。水稲荷神社と穴八幡神社の間を通る黄色の道は現在の早稲田通りで、水稲荷神社の別当寺だった宝泉寺は現在も早稲田大学に接してあり、道向かいの穴八幡神社とその別当寺の放生会寺もそのままの位置にあります。名前は「放生会寺」から「放生寺」になっているようですが。