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中央構造線と糸魚川静岡構造線2

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2015.10.6 中央構造線と糸魚川静岡構造線2

 

私はそれまで「糸魚川静岡構造線」についてしか考えてみたことがなく、構造線がどうやってできたのかも考えてみたことがなかったのですが<(_ _)>、学芸員さんのお話では「構造線」はあちこちにたくさんあって、それぞれの構造線にそれぞれの学者がいろいろな名前を付けているのだそうで、中央構造線と糸魚川静岡構造線は同じものだと思っている人も多いのだとか・・・・(^o^)

 

日本列島を横断する中央構造線(赤い線)

 
イメージ 1

なるほど、↑を見ると大鹿村近辺だけでもいくつもの「構造線」があるようですね。でも、日本列島の真ん中にあるのは糸魚川静岡構造線ですから、糸魚川静岡構造線が中央構造線なのだと思うのは無理ないかもしれません。これは名前の付け方の方に問題があるのではないでしょうか(^_-)

 

糸魚川静岡構造線は新潟の糸魚川から諏訪湖を通って静岡に向かう列島を縦断する断層で、中央構造線は九州・四国・紀伊半島を東西に横切り、愛知県から北上して諏訪湖で糸魚川静岡構造線と交わって、さらに群馬県から茨城県の筑波山を通って鹿島灘へと続いている列島を横断する断層のようですが、この断層は大鹿村の辺りでは南北に走っているので、大鹿村ではこの構造線に沿って谷は南北にほぼ直線的に刻まれ、九州から四国・紀伊半島まではこの中央構造線に沿って東西に直線的な谷が続いているのだそうです。

 

やはり「地質が連続していない断層面に沿って谷が刻まれたのではないか?」という推理は間違っていなかったようです\(^o^)/。私は最近までプレートテクトニクスの理論を知らなかったのですが<(__)>、それでも、推理の方向が間違っていなければ、科学的な事実と矛盾することはなく検証に耐えられるのです。既存の歴史解釈書が納得できないものになっているのは、何の検証もしていない無責任な机上のつじつま合わせばかりで、明らかに事実と矛盾していてつじつまの合わないところは「謎である」として逃げてきたからだと私は思います(^_-)

 

↑の写真の左上の大鹿村の図の中央辺りで、塩見岳の方から流れてきた「塩川」が中央構造線沿いに刻まれた谷を流れている鹿塩川に合流しているのですが、塩井(湯)はその合流地点付近にあるようです。この「塩見岳」にも古代には岩塩か塩湖があり、「塩川」は「塩の川」で、それらがこの合流点辺りの断層のどこかに溜まって塩井になっているのかもしれませんね(^_-)

 

この「塩川」を合流させた「鹿塩川」は、さらに赤石岳から流れてくる「小渋川」と合流して大鹿村から西に流れ、天竜川に流入しています。博物館の前を流れていたのは小渋川でしたが、小渋とはニガリのことではないかという説もあるようですから(^_^.)、赤石岳も塩の山で、小渋川も古代には塩分を含んだ「塩の川」だったのかもしれません。

 

中央構造線博物館の前を流れる小渋川

 
イメージ 2

 

画面中央の橋 橋までは行ってみなかったのですが、この橋から上流の方に赤石岳が見えるそうです。

 
イメージ 3

 

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