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山中地溝帯と海37 3万前の航海9

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2017.11.24 山中地溝帯と海37 3万前の航海9

 

瀬戸内海には「○○灘」がたくさんあるようですが、「灘とは、沖合の中で波が荒く、潮流が速くて航海が困難な場所を指す言葉。瀬戸内海に多数分布する灘は水深が浅く穏やかな水域が多いので、本来の定義に大きく反している」のだそうですが、「サンズイ+難」と書く「灘」は、本来は「航海が困難な場所」のことであって、沖合という意味は含んでいなかったのではないでしょうか。

 

2016年の科学博物館の実験は、3万年前の氷期の海とは全く異なる現在の海を渡ろうとしたのですから、3万年前の航海を再現するものではなかったと私は思いますが、それでも手漕ぎの草舟で外洋の潮流を乗り越えることはできなかったということは少なくても証明されたようです(^_-)

 

大型の船が造られて外洋や沖合を航行するようになったのは、ずっと時代が下ってからのことであり、小さな手漕ぎの草舟や丸木舟の時代に日常的に外洋や沖合を航行していたとは思えませんから(^o^)、「灘」とは当時の生活圏の中で「航海が困難な場所」を指す言葉だったのではないでしょうか。

 

瀬戸内海には海面に出ている外周が0.1Km以上の島が727もあり、その他に、潮汐の干満によって水面上に時々顔を出す岩や水面すれすれの岩、いつも水面下に没している岩が多数あるのだそうです。

 

それでは瀬戸内海は、727もの見えている島の間を縫いながら、見えていないたくさんの「時々顔を出す岩」や「水面すれすれの岩」や「水没している岩」にぶつかったり乗り上げたりしないように、それらの岩もうまく避けながら航海しなければならないわけですから、それは高い技術を要する難しい航海だったのではないでしょうか。だから「波が荒く、潮流が速い沖合」ではなく、「水深が浅く、穏やかな水域が多い」のに、瀬戸内海には「○○灘」と呼ばれる所がたくさんあるのだろうと私は思います。

 

多分大きな船は、水深の深い「水道」の部分を選んで通っていたのだろうと思うのですが、それには「水道」がどこにあるのかを熟知していなければなりませんよね(^o^)

 

そういえば、村上水軍を描いた『村上海賊の娘』にはそういう描写があったような気がします(^o^)。精確な海図などなかった時代に、複雑な瀬戸内海の暗礁や水道を隅々まで知り尽くしていて素早く船を操れたことが村上海賊の力の源だったのでしょう。

 

村上海賊の娘

イメージ 1

 

↓を見ると、瀬戸内海って本当に島だらけなんですね(^o^)。少し海面が下がれば、すぐに陸続きになってしまいそうです。瀬戸内海クルーズに行ってみたいな~。

 

3万年前の人たちが小さな草の舟を不眠無休で100km以上も漕ぎ続け、見えない島を目指して(見えないのでは目指しようがないではないかと私は思うのですが)深い海や巨大な海流を乗り越えてやって来たというのは根拠のない誤った思い込みであって、行けそうなところに島が見えていたからやって来たのだろうと私は思います(^o^)





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