2017.10.22 山中地溝帯と海6 中央構造線3
栃木県も古代には大部分が海だったことが分かりましたが(^o^)、中央構造線の三波川帯は群馬から東に向かい、埼玉を通って千葉の銚子の方に続いているのですから、現在は利根川になっている古毛野(鬼怒)川の下流部はともかくとして、上流部や栃木県の北部は通っていないようです。栃木県の海は、東日本が割れて多島群になった時に島になっていた現在の八溝山地や足尾山地の周りを囲んでいた海だったのでしょう。
昨日気が付いたのですが『とちぎの化石図鑑』には栃木県の平野部をクジラが泳いでいた頃の1500万年前の地図が載っていました。海に因む地名の多い那須塩原市も、塩谷郡もクジラの化石が出た宇都宮市も全部海になっていますね(^o^)。
それでは中央構造線は関東地方のどこを通っているのかと改めて調べてみると、wikipediaによれば、第四紀に大きく隆起したため古第三紀以前の基盤岩が露出している関東山地では、その北縁の群馬県下仁田町から埼玉県の比企丘陵北縁にかけて中央構造線が露出しているそうですが、関東平野では新第三紀と第四紀の堆積層の下に埋まってしまっているのだそうです。
以前フォッサマグナについて調べた時、「関東平野の新しい地層の中に関東山地の古い地層があるのは奇妙だけれど、関東山地が落ち残ったと考えればよい」と記されているのを読んで、どうやってそこだけが落ち残ったというのだろう?とその非論理的な説明に眼が点になってしまったのですが、やはり関東山地は落ち残ったわけではなかったのです(^o^)。やっと論理的に納得できる説明に出会うことができました\(^o^)/。
関東山地が隆起したという第四紀とは、258万8000年前から現在までだそうですが、フィリピン海プレートの移動方向が北から北西に変って東日本に東西から大きな圧力が加わるようになったのは今から300万年前のことだそうですから、関東山地はこの圧力を受けて隆起したということなのでしょうね。
それでは中央構造線もその頃にこの圧力を受けたことによってできた断層だったのでしょうか?
↓は千葉県立中央博物館にあったプレートを色分けした地球儀ですが、茶色がユーラシアプレート、緑が北米プレート、青が太平洋プレート、ピンクがフィリピン海プレートで、この4色が接している所にあるのが地震や火山の多い日本列島であり、国土の西半分が茶色のユーラシアプレートに、東半分が緑色の北米プレートに乗っているのです。
まさにドナルド・キーン氏が記されたように「ふんだんな美しい光景それ自体の陰にこそ、日本の生活の現実の困難がひそんでいた」ということのようですね(T_T)。