2017.10.21 山中地溝帯と海5 中央構造線2
中央構造線が露出している三波川は神流川に合流し、神流川は利根川に合流していますから、中央構造線の断層は三波川~神流川~利根川と続いているのでしょうか。
でも利根川は、江戸時代に付け替えられるまでは直接江戸湾に流れ込んでいた川で、付け替えによって現在の銚子に向かう流路になったのですから、現在の利根川が流れている場所を元々流れていた川は利根川ではなかったのですよね。中央構造線の三波川帯は江戸湾ではなく銚子の北の方に続いているのですから、断層は昔の利根川の方向に向かっていたのではないようです。
↓の図で見ると中央構造線の南側の三波川帯があるのは神栖市か鹿嶋市辺りのようですが、今は水郷地帯となっているその辺りは、『常陸国風土記』が記された8世紀には「香取の海」と呼ばれていた海であり、香取の海に流れ込んでいた川は古毛野(鬼怒)川だったのですから、中央構造線の断層を流れていた川は古毛野川だったようです。
三波川帯の緑色変成岩は三波川の東の荒川の長瀞にも露出しているのですが、三波川から荒川までの間は三波川帯の上にあるということでしょうか。
長瀞の緑色片岩
そういえば以前、海のない内陸の県から出土したクジラの化石を調べていた時、鬼怒川からクジラの化石が出土したという記事を見て、今は海のない栃木県もかつては深い海だったようだと考えたことを思い出しました(^o^)。
そのクジラの化石が出たのはどの辺りだったっけ?と調べようとしたら、【「海なし栃木」大昔は海の底!?】という2014年の記事が見つかりました。那須塩原市三島の那須野が原博物館でクジラの化石など300点を展示して「しるしるFOSSIL(フォッシル)-とちぎ化石発掘最前線」の特別展が2014年に開かれていたようです。
以前、那須の辺りには塩・磯・波・島などの付く地名が多いことや砂礫の厚い層があること、古墳や遺跡があること、大雨で平野部が海のようになってしまったことなどから、ここも古代には海だったのではないかと推理したのですが、この博物館は「塩原市」の「三島」にあるのですね。古代には海の中の島だった所なのでしょうか(^o^)。どんな所なのか、行ってみたいものです。2014年の特別展のカタログもまだ残っているかもしれませんしね(^_-)。
とりあえず博物館がどこにあるのか航空写真を見てみたら、この博物館は広大な水田地帯の中にありましたが、標高は265mもあるので、それではその周辺の農地は水田ではなくて畑なのかな?と調べてみたら、那須野が原は大佐飛山地の山麓部から箒川と那珂川の合流部にかけて広がる標高150m~ 500mの緩やかに傾斜した台地で、日本でも最大級の扇状地なのだそうです。
ところがこの那須野が原は、広範囲に砂礫層が堆積しているために保水力が弱く、水資源も乏しくて農地には適さない地域だったため、江戸末期まではほとんど集落のない原野だったのだそうですが、1885年(明治18年)に日本三大疏水の一つに数えられる那須疏水が開削されて、現在では酪農・米産で県内一の生産高を誇っているのだそうですから、やはりここは水田地帯のようですね。
この博物館によれば、「2300万~530万年前の栃木県は、現在の八溝山地と足尾山地が島になっていた程度で大部分は海の底であり、当時の海に堆積した地層は県内に広く分布している」のだそうです。やはり厚い砂礫層があるのは、ここが海だったからだったのです\(^o^)/。
葛生化石館にも海の生物の化石がたくさんありましたし、ここで採れる石灰岩は、海の底で海の生物の屍骸から作られたものなのですしね(^o^)。
ここまでの地形の推理が「でたらめもでたらめ!!」どころか隠れていた事実を正確に捉えていたことを、科学的な理論や化石という物証が裏付けてくれたようです\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
とちぎの化石図鑑
ところで那須野が原博物館を探していたら、2年前には見つけることができなかった塩谷町が見つかりました。土地勘のない私は塩原市で塩谷町を探したのですが<(_ _)>、塩谷町は塩谷郡で、日光市と矢板市の間にありました。ここも広大な平野の北の端ですから、やはり古代には海だったのです。