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遺跡と諏訪湖の湖面の時代的変化

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2015.9.29 遺跡と諏訪湖の湖面の時代的変化

 

茅野市には石器時代の「上之段石器時代遺跡」が標高1000mのところにあるそうです。尖石縄文遺跡は1062のところにありますから、石器時代から縄文時代にかけては、湖面は1000m前後のところにあって糸魚川静岡構造線の断層の弱い所を削りながら流れ出し、水の力で谷を刻みながら徐々に900mくらいまで湖面を下げていったのでしょう。

 

ところが、7世紀に本田善光が造った諏訪善光寺は810m、諏訪大社前宮は800mのところに造られていますから、縄文時代に尖石遺跡が作られた頃から7世紀までの間のどこかで釜口水門付近の崩落が起きて800mのところに流出口が出来てしまい、湖面は一気に800mまで下がり、その流れ落ちた大量の水が土石流となって伊那谷や飯田盆地を作ったのではないでしょうか。

 

前宮がいつ頃造られたのかは分からなかったのですが、「前宮の地には上社大祝の始祖とされる諏訪有員が初めて大祝に就いて以来、大祝の居館が設けられていた。」のだそうです。では、その始祖が大祝に就いたのはいつ頃だったのでしょうか?

 

「神長官守矢史料館のしおり」には、「出雲からタケミナカタが侵入してきた時、タケミナカタと先住民族が天竜川を挟んで戦い、漏矢神を長とする先住民族が負けて、タケミナカタの子孫の諏訪氏が生神の大祝(おおほうり)の位に就き、漏矢神の子孫の守矢氏が神長の位に就いた」と記されていましたから、上社大祝の始祖が初めて大祝に就いたのは、守矢氏の祖が初代神長となったのと同じ頃でしょう。(初めて大祝に就いたのは諏訪有員だという記述にウソがなければ、ですが)

 

諏訪大社・前宮

イメージ 1

 
イメージ 2

↓は前宮の本殿の横から下を見たものですが、今家々が立っている平地は、当時は諏訪湖であって前宮や大祝の居館は湖水に面して造られていたのです。

 
イメージ 3

左側に立っているのは前宮の御柱です。


今、6年前に撮った↓の写真を見て初めて気が付いたのですが、杖突峠は前宮のほぼ真上だったのですね。 
イメージ 4

神長官は現当主の守矢早苗氏が78代目なので、1代を30年とすると初代が神長官になったのは今から2340年前頃となりますから、前宮が造られたのは、どんなに早くても紀元前4世紀より前ということはなく、またタケミナカタと漏矢神は天竜川を挟んで戦ったのですから、この戦いは天竜川ができた後のことであって、『古事記』が国譲りがあったと記した神代のことではあり得ないわけですが(^_-)、前宮や善光寺が造られた頃には、800m付近はもう湿地ではなく、居館が造られるくらいに乾いていたようです。この高さは山裾の傾斜地ですしね。

 

そして、7世紀には800m近くまであった湖面は、300年前に本宮が現在地に造られた頃には770mの波除鳥居の辺りにあったのですから、7世紀から17世紀までの1000年間に湖面はさらに20~30mくらい下がり、現在の湖面は756mですから、直近300年間でさらに14m下がったということになりますね。




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