2015.9.30 諏訪善光寺
以前pcat2sさまに戴いたコメントから、飯田と小山にも善光寺があることを知って善光寺について調べてみたところ、諏訪にも善光寺があり、飯田・諏訪・長野・小山の善光寺は全て本田善光が建立したものであることや、本田善光は百済の義慈王(余義慈)の息子の余善光であることなどが分かってきたので、今回は諏訪善光寺にも行ってみようと思ったのですが、やはりなかなか大変な道でした。古代のものを初めての所で探して辿りつくのは簡単ではなく、葦原神社のように辿りつけなかった所もいろいろあるのです<(_ _)>。一度分かってしまえば容易に行けるのですが。
諏訪善光寺は、諏訪湖の跡の平地から急勾配の細い道を登って行った山の斜面にあり、山門の前には車の入れない細い道があるだけで、その道から下は低くなっていっていましたから、この寺は諏訪湖畔の高台に当時の湖水に面して造られたようです。
諏訪に行った本田善光(=余善光)は、自分の住まいの敷地内か、住まいから近い所に聖明王(余明)から欽明天皇に贈られ難波の池に捨てられていた阿弥陀三尊像を安置する寺を造ったのだろうと思います。当時の神社や寺は一般庶民には何のかかわりもないもので、王族が自分たちのために造るものだったのですから。
善光は7年間諏訪にいたそうですが、その間どこに住んでいたのでしょうね?広さがあって立地条件の良い場所にあった王族の宮跡は、学校や公共施設になっていることが多いのですが、善光寺の下には諏訪西中学校と湖南小学校があります。このうち湖南小学校は標高770mくらいのようですが、17世紀の江戸時代にはまだ湖面は770mに近いところにあったようですから、本田善光が諏訪に来た頃にはここはまだ諏訪湖か水際だったかもしれません。
でも諏訪西中学校はそれより少し高くて780~790m位のようですから、ここに善光の住まいがあったのかもしれません(^o^)。当時の諏訪湖は山に囲まれていて平地はほとんどなかったようで、前宮が造られていたのも山裾の傾斜地でしたが、善光寺の下のここは、当時は山裾の湖畔で立地条件も良いうえ、十分な広さに整地されていたようですから(^_-)。
諏訪善光寺山門
本堂
境内
山門からの景色
当時は水田から小学校の辺りまで諏訪湖だったのでしょうね。
原村にも遺跡がたくさんあるようだったので、帰り道は諏訪から小淵沢I.Cまで原村を通って阿久(あきゅう)遺跡の場所を確かめてきたのですが、この縄文前期の遺跡もまた904mの高さにありましたから、天竜川ができて湖面が800mに下がったのは縄文中期以降のようです。
阿久遺跡