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奈良・小山田古墳の横穴式石室14

2017.9.30 奈良・小山田古墳の横穴式石室14

 

宇佐八幡神託事件で、道鏡に譲位することを藤原氏に阻まれてしまった称徳天皇は、769年に「道鏡に譲位はしないが、後継者は自分が決める」という詔を出したのですが、770年に後継者を指名しないまま死去してしまいました。その不自然さから私は「これは予期しなかった突然の死であり、称徳天皇は危機感を持った藤原氏に暗殺されたのではないか」と考えたのですが・・・・・

 

学者さんたちは、宇佐八幡神託事件を称徳天皇の恋愛問題としてしか見ていないようなのですが、人類の歴史上、恋愛で体制が変わったことなどないのではないでしょうか?「大義なき解散」だとか、「勝つための離合集散」だとかといった今の状況をみても分かるように政治とは取るか取られるかの権力闘争であり、恋愛だの不倫だの重婚だのはどんなにマスコミが騒ごうと個人的な問題であって権力構造を変える要因ではないのです。

 

恋と権力のどちらかを選ばねばならない状況では、権力者は迷わず「権力」を選んできたようですが、称徳天皇が本当に愛に溺れて「どこの馬の骨ともしれない怪僧」を天皇に据えようとしていたのであれば、それは王族に生まれた者でなければ天皇にはなれないとする「天皇制」という権力構造を根底から覆す大事件であって、そんなことはありえなかったのです。

 

応神天皇の子孫の「聖武天皇・称徳天皇・道鏡」と崇神天皇の子孫の藤原一族との間には、↓のような権力闘争の経緯があって、その間に大勢の人が殺されたのですが(T_T)

 

称徳天皇は後継者を指名できず、遺詔を残すこともできずに亡くなった(殺された)のですから、称徳天皇も持統・元明・元正・文武の応神系の4人の天皇と同様に、決して再生することのないようにと火葬にされたのではないでしょうか。

 

そのような確執があったのですから、藤原氏と、その藤原氏に擁立された崇神天皇の子孫の白壁王(光仁天皇)は、称徳天皇の「天皇陵」は造らなかったでしょう。称徳天皇は応神系の人たちの手によって、「応神系王族として、天皇として」ふさわしい場所に、けれども藤原氏に目を付けられたり、破壊されたりしない方法で埋葬されたのではないでしょうか。

 

それではどこに、どのようにして埋葬されたのかというと、法隆寺の心柱の礎石から出てきたという火葬骨が称徳天皇なのではないかとこのブログを始めたばかりの頃に記録や状況から推理しました(^o^)

 

実はその当時、私は法隆寺が斑鳩にあるということは教科書で知っていたものの、その斑鳩がどの辺りにあるのかも、法隆寺に再建・非再建の論争があったことも、ここに書いているような権力闘争があったことも全く知らなかったのですが(^o^)

 

でも思い込みによる飛躍したつじつま合わせをせずに論理的に考えていけば、真実に近づくことはできるようです。ホームズも「ただ一滴の水から、論理学者は大西洋やナイアガラ瀑布を見たことがなくても、それらが存在しうることを推論できるであろう」と言っていましたしね(^_-)

 

法隆寺には、短い時間でしたが2015年8月に行くことができました。

 

法隆寺山門


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イメージ 1

 
五重塔

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イメージ 2


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イメージ 3

 

外から覗くことができるだけで中へは入れないのですが、称徳天皇はこの塔の心柱の礎石に埋められていたのですね。それなら藤原氏には分からなかったでしょうし、もし分かったとしても手出しはできなかったでしょう。

 

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