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奈良・小山田古墳の横穴式石室13

2017.9.29 奈良・小山田古墳の横穴式石室13

 

雄略天皇の残虐行為が記されていることを知った時には「え~っ!」と思ったのですが、その後、雄略天皇は架空の人物だということが分かってきたので、『古事記』が記した残虐行為は、殷の暴君とされる紂王(ちゅうおう)の記述からとった作り話のようだと考え、称徳天皇と道鏡に関する卑猥なオハナシや川柳を知った時にもやはり「え~っ!」と思ったのですが、因果を辿ってみたらこちらも事実無根の作り話だったことが分かってきました

 

けれど、なぜわざわざ天皇についてこんなひどい作り話を「正史」に記したのだろう?という違和感と疑問はずっと残っていました。

 

先祖を架空の「聖徳太子」や「仁徳天皇」のような「聖人君子」に仕立てるのなら話が分かるのですが、悪行を誇張して書いたのでは、先祖は残虐な人殺しや淫乱な人だったと宣伝するようなものですから、それが事実だったとしても作り話だとしてもそんなことをわざわざ書くはずはない、と学者ではなくごくフツーの一般人である私は思ったのです(^_^.)

 

けれど、なぜそんなひどい作り話をわざわざ「正史」に記したのかは、丹念に因果を辿っているうちに分かってきました。これは自分たち(崇神系王族)の先祖ではなく、他人(応神系王族)の先祖をけなし、自分たちのしたことを正当化するために作ったオハナシだったのですね。

 

雄略天皇が在位したとされている時期に実際に大王として在位していたのは、『宗書 倭国伝』などに記録が残っている「倭王・武」であり、すなわち応神天皇だったのです。「倭王・武」が応神天皇であることについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第6章の3「謎の倭の五王を推理する」をご参照ください。

 

そして、藤原氏と対立していた称徳天皇と道鏡は応神天皇の子孫で、彼らの「墾田の私有化を禁止する」などの改革によって、藤原氏は既得権を奪われようとしていたのです。


そこでそれを阻止し、「応神天皇やその子孫たちは残虐で淫乱でとんでもない人達だった。だから自分たちは徹底的に排除したのだ」というシナリオを作って自分たちのしたことを正当化したはずだったのに、「継体天皇は応神天皇の5世の孫である」とウソをついていたために、結果的に自分たちの先祖が残虐で淫乱だったと「正史」に記したことになってしまったのではないでしょうか(^o^)

ウソをつくと必ずどこかに矛盾が出てしまうのですよね(^_-)。その矛盾を『記紀』信奉者の学者さんたちは古代史の謎であり、ロマンだとしているのですが、「古代史探偵・推古」の私は、そのウソに沿ってつじつま合わせをする代わりに、ウソの方を追及してしまったのです(^o^)
 
 

ネコビタイ便り

 

久々に花を付けたフクロミモクゲンジがブーゲンビリアのようなピンクの実を結び始めていたのですが、昨日の大雨と強風で枝や実が吹き飛ばされてしまいました(T_T)。でも今朝は良く晴れたので、枝に残った実が朝日を受けて赤く輝き、青空に映えてとてもきれいでした。

 
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たくさん落ちてしまったので、ドライフラワーにしようと思って散った実のきれいなものを拾い集めてみました(^o^)


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