2017.9.28 奈良・小山田古墳の横穴式石室12
宮内庁が囲い込んでいる「高野陵」が「称徳天皇陵」ではないなら、安倍内親王はどこに埋葬されたのでしょう?「天皇陵」が造られず、公にはされなかったとしても、王族であり天皇であった人なのですから、どこかにはちゃんと埋葬されているはずです。何よりも血統が大事であり、血統だけが身分の根拠だった時代なのですから。
血統といえば、聖武天皇は不比等の孫であるということのみが強調されているようですが、その系譜を辿ってみると、聖武天皇は不比等の孫であると同時に応神天皇の子孫でもあるのです。ということは、聖武天皇の娘である安倍内親王も、不比等の曾孫であると同時に応神系の王族でもあったわけですね。
この時代の天皇は、何人もの王族の女性と何重にも結婚を繰り返していたため、系譜はすごく複雑なのです。↓にその複雑さの一端がありますが、ザッと読んだくらいではとても理解できません<(_ _)>。天智天皇の娘が4人も天武天皇の妻になっているなど、現代の感覚では想像もできないような系図なのですから。
『記紀』を信奉する学者さんたちは、天智と天武は実の兄弟であることを前提にこの間の出来事を解釈しているのですが、いくら古代のことであっても、実の弟に自分の娘を4人も嫁がせているということに何も疑問を感じないのでしょうか?
天智と天武は異父兄弟であって、壬申の乱は実の兄弟間の皇位継承争いではなかったのです。この争いは642年に渡来した余昆(昆支)が464年に大王に即位して「倭王・武」となった時から始まり、770年に天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子という王族ではあっても皇位継承からは遥かに遠いところにいた白壁王が藤原氏によって即位させられるまで(本人は望んでいなかったようです)300年に渡って続いていた崇神系王族と応神系王族の争いであり、初の女帝となった称徳天皇は、応神系王族の最後の天皇になってしまったのです。
称徳天皇が皇位を継がせようとしていた弓削道鏡は怪僧などではなく、弓削を領地としていた弓削皇子(天武天皇の皇子)の息子で、応神系王族だったようです。
学者さんたちが信じて「ああだ、こうだ」と論評や憶測をしている「女帝と道鏡」のアヤシゲな恋愛話は全部真っ赤なウソなのです(^o^)
『記紀』を信奉しているのに学者さんたちは全く疑問を持たないようなのですが、「女帝と道鏡」のオハナシにしても、雄略天皇の残虐な行いにしても、もしそれが本当のことであったなら、そのような出来事はわざわざ「正史」に書き記したりせずに隠し通したはずだとは思いませんか?
『記紀』は「天皇は神の子孫である」として天皇家の正当性を主張するために創られたものなのに、そのようなスキャンダルは「万世一系」であるはずの祖先を貶めるだけの恥ずべき行為でしかないのですから(^o^)。
「女帝と道鏡」のスキャンダルが捏造された背景は↓の「宇佐八幡神託事件」にあります。49まであって長いのですが(^o^)。