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奈良・小山田古墳の横穴式石室11

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2017.9.27 奈良・小山田古墳の横穴式石室11

 

25日の続きに戻ります。先日、火葬にされた天皇は「持統・元明・元正・文武」の4人だけと書きましたが、実はもう一人、聖武天皇の娘で正真正銘の日本で初めての実権を持つ「女帝」となって藤原氏と対峙した安倍内親王(孝謙・称徳天皇)も火葬にされていたのではないかと思います。

 

宮内庁は奈良市山陵町字御陵前にある「高野陵」を「称徳天皇陵」として囲い込んでいるのですが、この高野陵は全長127mの前方後円墳なのだそうです。けれど称徳天皇が亡くなったのは770年で、アメノタリシヒコの石舞台古墳(622年頃)以降、天皇墓は八角形になっていたのですから、この前方後円墳は622年より前に造られた王族の墓であって称徳天皇陵のはずはありませんよね。

 

この辺り(佐紀盾列古墳群)の前方後円墳のどれかが称徳天皇の「高野陵」とされているようなのですが・・・・

 
イメージ 1

 
イメージ 2

 

でもその辺りにあったのは、成務天皇や垂仁天皇の皇后のお墓など全く時代が違う紀元前後の人達の陵でした。

 

成務天皇陵

イメージ 3

 

垂仁天皇の皇后の日葉酢媛命陵

イメージ 4

 

その中に8世紀の天皇のお墓が混じっていることや、8世紀の天皇が前方後円墳に葬られているということについて、学者さんたちは何の疑問も感じないのでしょうか<(_ _)>

 

私は疑問に思ったので調べてみたら、この古墳の築造は4世紀頃と推定されているのだそうです。

 

4世紀頃に造られ、高塚と呼ばれていたというこの前方後円墳を8世紀の称徳天皇陵だということにして囲い込んだのは明治政府の宮内省諸陵寮の神祇官で、その時に「高塚」を「高野陵」という名前に変えたのかもしれませんね。

 

「称徳天皇陵」だけでなく、これらの巨大な前方後円墳を古墳時代以前の紀元前後の人達のはずの日葉酢媛命や架空の成務天皇の陵だということにして囲い込んだのもこの神祇官達だったのでしょうか?

 

4世紀頃の前方後円墳である「高野陵」は8世紀の称徳天皇の陵ではあり得ないのですが、それでは、孝謙・称徳天皇として実際に二度も天皇になった安倍内親王の本当の「天皇陵」はどこにあるのでしょうね?

 

他の「女帝」だったとされている人達と同様に「称徳天皇陵」も造られていなかったのではないでしょうか。(架空の)天皇に天皇陵がない理由を、推古天皇は息子の墓に、敏達天皇と舒明天皇は母の墓に、持統天皇は夫の墓に、斉明天皇は娘と合葬されたというようなオハナシ作ってつじつまを合わせたようですが、称徳天皇は独身で夫も子もいませんでしたし、実際に天皇だったのですから、適当なオハナシ作ってどこかに合葬したことにしてすませるわけにはいかず、既存の前方後円墳を「称徳天皇陵」だということにしたのかもしれません(^_-)

 




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