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Channel: 歴史探訪
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2017.9.26 コメントへのお返事

iik*m03*さまのおっしゃる通り、4世紀末に鎌足の祖先が崇神天皇の東征に加担して鹿島の領地を安堵されて以降現在まで、鹿島神宮の宮司は鎌足の一族の「中臣連」が世襲してきたようです。

7世紀の乙巳の変の時には、鎌足が崇神天皇の子孫の中大兄に加担してさらに鹿島に神領を貰い、それ以降、朝廷による社殿の造営と20年毎の建て替え、毎年の「鹿島使い」による朝廷からの奉幣を受けるようになっていたことが『古事記』・『常陸国風土記』・『鹿島神宮誌』の記述などから分かりました。


このことについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第5章の「藤原氏の祖廟・春日神社と鹿島神宮を推理する」をご参照ください。
 
「鎌足が奈良で生まれた」というのも「藤原氏」になったというのも「正史」のウソで、鎌足は鹿島の生まれであり、iik*m03*さまはご存知だと思いますが、鹿島の生誕地には「鎌足神社」が建っています。鎌足とその子孫は、ずっと「中臣氏・大中臣氏」であって藤原氏になったことはないのです。
 
鎌足神社
イメージ 1

 
イメージ 2

 
中臣鎌足と藤原不比等は「正史」や系図の上では親子ということになっていますが、実際は血の繋がりのない別の氏族であって、鎌足の子孫は国津族の「中臣連(なかとみのむらじ)」、不比等の子孫は天津族の「藤原朝臣(ふじわらのあそん)」です。このことについては第14章の「藤原不比等は本当に中臣鎌足の子だったのか?」をご参照下さい。
 
また、鎌足の子孫である「中臣姓鹿島氏」と平国香の子孫である「平姓鹿島氏」も全く別の氏族であって、5世紀から鹿島神宮の宮司を世襲してきたのは「中臣姓鹿島氏」であり、鹿島城主であった「平姓鹿島氏」が神官や宮司になったことはないだろうと思います(^o^)。剣聖・塚原卜伝も「中臣姓鹿島氏」ではなく「平姓鹿島氏」です(^o^)
 
↓の「鹿島城址記念碑」を建てた鹿島君幹氏も大掾氏一族の「平姓鹿島氏」ですが、ここには「慶長の初めに徳川氏が鹿島氏を大宮司並びに神宮の神職につかせた」と記されていますから、神職になっていた時期もあったのでしょうか?でもこの文章からは神職になったわけではなく、大掾氏として奉幣使の代理を務めたり、神宮の流鏑馬の行事を仕切っていただけのようにも受け取れるのですが。


イメージ 3

 
卜伝が「中臣姓鹿島氏」の神職だったのか、「平姓鹿島氏」の武士だったのかを調べていたら、宮本武蔵が生まれたのは卜伝が亡くなった後であり、武蔵と卜伝の対決のエピソードは全くのフィクションであることが分かったというオマケもありました(^o^)。フィクションであれば、事実であろうとなかろうとなんでも書けるのですよね。
 
 
iik*m03*さまの奥様とは趣味が合いそうです\(^o^)/。アボカドはどんどん伸びて2m以上になってしまったのでベランダに出したら冬の寒さで枯れてしまいましたが<(_ _)>。今年播いてみたのはポポーとマンゴーですが、まだ小さいのでこの冬は部屋の中に置いて楽しめそうです。ライチ―も2個播いてみたのですが、こちらはまだ芽が出ていません。どれも芽や葉を楽しんでいるだけなのですが、パイナップルも育っています(^o^)


ポポー
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パイナップル
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