2017.10.2 奈良・小山田古墳の横穴式石室15
古代史に関心がなかった頃の私は、法隆寺に再建・非再建の論争があったことを知らなかったのですが(^_^.)、論点は何だったのだろうと調べてみたところ、法隆寺は7世紀後半に天武天皇によって造られたものであることが分かってきて、火葬骨の謎も含めて「再建・非再建」の謎は解けました\(^o^)/。
法隆寺は607年に聖徳太子が造ったものでも、馬子(アメノタリシヒコ)が造った若草伽藍を再建したものでもないのです。焼け落ちたのは法隆寺ではなく、馬子(アメノタリシヒコ)が造った若草伽藍であり、法隆寺は再建ではなく、若草伽藍の跡地に7世紀後半に馬子(アメノタリシヒコ)の孫の天武天皇が新しく造ったものなのです。そもそも法隆寺を造ったとされている聖徳太子は架空の人物なのですしね(^_-)。
天武天皇は、乙巳の変で中大兄に殺された異母兄弟の蝦夷(石川麻呂)が造りかけていた山田寺の塔も壬申の乱後の676年に完成させ、678年には丈六仏の鋳造を命じて685年の石川麻呂の36年目の命日に開眼させています。この仏像は、1187年に藤原氏の氏寺である興福寺の僧兵によって山田寺から強奪され、興福寺の本尊にされてしまったそうですが(T_T)。
法隆寺が謎だらけになっているのは、歴史学者さんたちが信奉している『記紀』を始めとする「文献」とされているものがフィクションであって、作り話やウソが多く含まれているからなのです(^_^.)。
例えば、再建論者の学者さんたちが論拠にしていたのは『上宮聖徳法王帝説』に「607年に聖徳太子が法隆寺を造った」と記されているからということらしいのですが、聖徳太子は架空の人物であって、『上宮聖徳法王帝説』は架空の人物の生涯を記したフィクションの伝記なのです。
再建・非再建の論争に決着がつかなかったのは、双方の学者さんたちが「文献」に記されたウソを史実だと信じて論じ合っていたからでしょう。つまりこの論争は、自分の説に都合のよい方の文献のフィクション(ウソ)を根拠に、お互いに相手のフィクション(説)を否定し合っていたというわけですね。なぜなら、フィクション(ウソ)を元に組み立てた論や説はフィクションでしかないのですから。
法隆寺は607年に聖徳太子が造ったものが現在まで残っているものでも、一度焼け落ちた後に再建されたものでもないのです。
焼け落ちたのは法隆寺ではなく若草伽藍であり、法隆寺は再建されたのではなく、若草伽藍の跡地に7世紀後半に天武天皇が新しく造ったものなのです。
『日本書紀』が法隆寺の創建について何も記さなかったのは、法隆寺が天武天皇によって、天武天皇の祖父(馬子)・父(蝦夷)・異母兄弟(入鹿)の蘇我氏として隠された3代の応神系大王の菩提を弔うために建立されたものだったからではないでしょうか。
そいえば、法隆寺夢殿の本尊の「救世観音」は,聖徳太子の等身の御影と伝わっているそうですが、この「救世観音」という名前は平安時代の法華経信仰から広まった名称だそうですから、飛鳥時代にはまだ知られていなかったようです(^_-)。
またこの夢殿を含む東院伽藍は、天平11年(739)に僧行信が造ったものだそうですから、この「救世観音」を「聖徳太子の等身の御影」だと喧伝したのも行信だったのかもしれません。「救世観音菩薩立像」が秘仏とされてきたのも、「聖徳太子の等身の御影」だというウソがバレないようにするためだったのかもしれませんね(^_-)。
もし「聖徳太子の等身の御影」があるとすれば、私は止利仏師が623年に完成した釈迦三尊像がそれであろうと思います(^o^)。
これがアメノタリシヒコ(蘇我馬子)の本当の等身像かも(^o^)