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奈良・小山田古墳の横穴式石室

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2017.9.14 奈良・小山田古墳の横穴式石室

 

今朝、テレビから「壬申の乱・・・」と聞こえてきたので、ン?と思ったら、学者さんたちが「日本書記の壬申の乱の記述は疑わしい所がある」という話をしていました。たった4日で3万もの兵を集められたはずはないから、前もって準備していたのではないか・・・・というような。

 

当たり前ですよね(^o^)。兵は東国から新幹線や飛行機でやって来たわけではないのですから。学者さんたちが今までそのことに疑問を持たなかったことの方が私には不思議だったので、やっと気が付いたかと思ったのですが(^_-)、相変わらず「天武は天智の弟で壬申の乱は兄弟間の王位争いが発端」という思い込みは変っていないようで、「壬申の乱」の記述には疑わしい所があるけれど他の部分は事実だと信じて疑わないようです<(_ _)>

 

少し前の新聞に↓の記事が載っていました。小山田古墳は羨道の長さが8.7mあって、石舞台古墳の11.7mに並ぶ大型の石室だったことが分かったそうで、墳丘は1辺が70mの方墳で、規模は日本最大級だったそうです。2年前には古墳かどうか分からないということで「小山田遺跡」となっていましたが、やはり古墳だったのですね。

 
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『記紀』を信奉する学者さんたちは、この古墳を「舒明天皇」の墓か「大豪族・蘇我蝦夷」の墓だとお考えのようですが、「舒明天皇」は架空の天皇ですし、7世紀には大王(おおきみ=8世紀以降は天皇)の支配体制が確立していたのですから、狭い飛鳥の大王(天皇)の眼と鼻の先に、大王以外の人が大王の墓より大きい日本最大級の墳丘や羨道や石室を持つ墓を造ることなどできたはずはありませんよね(^_-)

 

もしこれが「大豪族・蘇我蝦夷」の墓であるなら、それは大王でも王族でもない豪族が王都の飛鳥に大王より大きな自分のお墓を造ったということになりますから、それは蝦夷が謀反を起こして天皇に取って代わっていたということなのでしょうけれど、日本書紀には蝦夷が天皇だったとも謀反を起こして天皇になったとも記されていません。

 

けれど論理的に考えるなら、「飛鳥にある小山田古墳が日本最大級の古墳」であるのなら、「小山田古墳は豪族・蘇我蝦夷の墓ではない」のか、蝦夷の墓であるのなら「蘇我蝦夷は豪族ではなく大王(天皇)だった」のかのどちらかだと思うのですが、この古墳のある甘樫丘に住んでいたのは、蘇我蝦夷・入鹿親子であり、彼らの家は、「上の宮門(うえのみかど)」「谷の宮門」(はさまのみかど)」、子供たちは「王子(みこ)」と呼ばれていたのですよね(^o^)

 

住んでいた家が「宮門(みかど)」で子どもが「王子(みこ)」なら、その子の父親は王だったということではありませんか(^o^)

 

ここまで検証してきたように、蘇我馬子とは欽明天皇の孫で用明天皇の息子のアメノタリシヒコのことであり、石舞台古墳は「大王・アメノタリシヒコ」の大王墓であって、石舞台古墳に並ぶ大型の石室を持つ小山田古墳はアメノタリシヒコ(馬子)の息子でアメノタリシヒコの次の大王であった蝦夷の大王墓であり、その西隣にある菖蒲池古墳が『日本書紀』が「蝦夷と入鹿は並べて墓(双墓・ならびのはか)を造り、蝦夷の墓を大陵、入鹿の墓を小陵と呼んだ」と記した入鹿の墓でしょう。

 
 

ネコビタイ便り

 

昨日「ミョウガの花」と書いた白い花は、「ヤブミョウガ」だったことが分かりました(^o^)。ヤブミョウガの花なら私も知っていたのですが、ミョウガの苗を戴いて植えた場所に生えてきたのでミョウガだと思い込んでしまったのです<(_ _)>。本当のことが見えなくなってしまう「思い込み」って本当に恐ろしいですね(T_T)

 
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