2017.9.15 奈良・小山田古墳の横穴式石室2
『日本書紀』によれば、蝦夷と入鹿は天皇の宮のすぐ近くに建てた自分たちの家を「宮門(みかど)」、子供たちを「王子(みこ)」と呼ばせていたようですが、それは今で言えば、皇居の近くに家を建ててその家を「皇居」と呼ばせ、自分の息子を「親王」と呼ばせていたということですよね(^o^)。
今だって、どんなにお金持ちでもそんなことをする人も、しようと思う人もいないと思いますが(^_-)、今よりずっと厳しい身分制度があって、生まれた家(家格)によって身分や出世や結婚など全てが決まっていた古代に、豪族にそんなことができたはずはありませんから、それができた「馬子―蝦夷―入鹿」の三代の「蘇我氏」は実際に大王だったのです(^o^)。
そして、壬申の乱で王位に就いた大海人皇子は、大王・蝦夷(=高向王)の息子の漢皇子(あやのみこ)であり、乙巳の変で中大兄に殺された入鹿とは異母兄弟、母(宝皇女)が再婚後に生んだ中大兄とは異父兄弟で、中大兄の4歳年上の兄だったのです。
このことについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章をご参照ください。
王(皇)統とは男系男子だけが継承できるものだったようですが、これは平たく言えば、福岡伸一先生がお書きになっていたように「始祖王のY染色体を引き継ぐ者だけが王(皇)統を継ぐ資格を持っていた」ということなのでしょうね。
昨日の番組でも、学者さんたちが壬申の乱はただの兄弟の争いだったのではないような気がするというようなことを言っていましたが、これは同じ男系の兄弟の王位争いではなく、母は同じでも、父が応神天皇の子孫であった大海人皇子と崇神天皇の子孫であった中大兄の争いであり、それぞれに与する王族・豪族の派閥争いでもあったのです。誰が天皇になるかによって、野党になるか与党になるかが決まってしまい、それは、皇統が続く間は変らなかったわけですから。
継体天皇の外孫の子孫であった中大兄は、そもそも崇神天皇のY染色体を引き継いでいないのですから資格はなかったはずですが、「継体天皇の子孫である」という出自を持つ中大兄の野心と、応神天皇の子孫の欽明天皇の即位以降は野党になってしまっていた崇神系の王族や豪族との利害が一致したことが「クーデター・乙巳の変」の背景であろうと思います。
アメノタリシヒコは、律令制を導入し、冠位十二階を定めることによって、崇神系王族が享受してきた土地の私有や官位の世襲などの既得権を廃そうとしていたようですから。
韓国歴史ドラマを見ていると、どの時代のどの王がテーマでも繰り返し繰り返し同じようなシチュエーションの王位争いが出てくるのですが、それらは『記紀』が創ったオハナシや紫式部が『源氏物語』に記したオハナシとよく似ているのですよね。その類似性と相関に気が付いて「な~んだ、同じだ」と思ったら古代史の謎が解けてしまったのです(^o^)。
ネコビタイ便り
今朝の新聞に「高麗川の巾着田のヒガンバナが見ごろになった」との記事がありましたが、ウチのヒガンバナも満開です(^o^)。今年は咲かないようだと思っていた黄色のヒガンバナも遅れて2本出てきました\(^o^)/。
黄色のヒガンバナ
相関といえば、埼玉県には高麗だけでなく朝鮮半島由来の地名がたくさんあります。新座市は元「新羅郡」だったそうですし、飯能はハン(韓)ナラ(国)だったようですし(^o^)。