2017.9.12 「塙」って?99 武蔵野台地の端(はな)88 古代の海
ここまで見てきたように、多摩川周辺の低地は世田谷側も川崎側も中世には海で、その海は低地沿いにずっと内陸まで入り込んでいたのですが、海退によって海面が下がって海岸線が遠のいていくに従って、海までの水路として残ったのが現在の川なのだと私は思います。
ずっと上流の昭島市も160万年前はクジラの泳ぐ海だったのですし
クジラの化石が発見されたのは、↓の鉄橋の辺りです
篭谷戸より少し上流の府中の周辺も、500万年前にはまだ鯨の泳ぐ海の底だったことが地層とクジラの化石から分かっているのですし(^o^)。
最初から「ここが山でここが川」と決まっていたわけではないのですから、一番流れやすい所に水が集まってきて海までの流路が定まるまでは、水は流れやすい所をそれぞれに流れていたのです。それが低地のあちこちにいくつも残っている古流路跡でしょう(^o^)。
「古多摩川」が、学者さんたちが常識としている(?)ような川幅が何kmもある川だったのであれば、周囲にこんな古流路跡がたくさん残っているはずはありませんよね(^_-)。
↑の「多摩川中流域自然地理ガイド」にも、府中崖線と多摩丘陵との間の幅2kmほどの低地は江戸時代まで網目のように川が流れる湿地だったから、多摩川は府中付近で川幅が2kmほどあったのだというように記されていますが、これは多摩川の川幅が2kmあったのではなく、この辺りでは幅2kmに渡って海が入り込んでいたということでしょう(^o^)。海が退いた後の湿地帯から水が幾筋もの流れとなって集まり今の多摩川になったのだと思います。
海までの流路が定まっているように見える現在でも、最近のような豪雨があれば溢れた水は別の所へ流れて新しい流路を作ってしまいますし、土砂崩れや流木や堤防の決壊などでも流路は変わってしまいますよね。また、現在西之島が大きく育ちつつあるのを見ても分かるように、山も初めから山としてそこにあったわけではないのですが、現在の地形だけで歴史解釈をしている学者さんたちは、山や川は初めから「山」や「川」としてそこにあって昔も今も変わらないのだとお考えのようです<(_ _)>。
きっと『記紀』や「文献」を信奉する学者さんたちは、イザナギとイザナミが天の沼矛で島を作ったとか、イザナミが国を産んだとかというような非論理的なオハナシを信じていて、山も川も神代にカミサマが作ったものなのだから永久不変なのだと考えているのでしょうね(^_^.)。
昨日はまた、通常の800倍という規模の太陽フレアが発生したそうですし、奈良では記録的大雨が降って大和川が氾濫危険水位になり、橿原神宮駅が水浸しになったそうです。
毎日のようにどこかしらで記録的豪雨による水害が起きているので、いつどこで何が起こったのか混乱してしまいますが<(_ _)>、奈良盆地も古代には海だったのですよね。奈良も古代の海に回帰しようとしているのでしょうか(T_T)?
ここに書いているようなことを「でたらめ」だと思いたい方は信じたくないでしょうけれど、↓の地図は私が作ったものではなく、国土地理院が作ったものです(^o^)。
『古事記』では(架空の)神武天皇が橿原で即位したというオハナシが創られていて、神武天皇陵まで造られているのですが、『古事記』がそのオハナシを作った7~8世紀にはその辺りも乾いた土地になっていたかもしれませんが、紀元前660年のその辺りはまだ古奈良湖の水底かよくてもせいぜい湿地帯で、天皇墓が造られるような場所ではなかっただろうと思います(^o^)。
あちこちで起きている豪雨被害に追い打ちをかけるように、また台風18号が日本に近づいてきているそうです<(_ _)><(_ _)><(_ _)>。