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「塙」って?98 武蔵野台地の端(はな)87 篭谷戸3

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2017.9.11 「塙」って?98 武蔵野台地の端(はな)87 篭谷戸3

 

中世には港だったという篭谷戸はどこなのか確かめに行ってみました(^o^)

 

尾山台や田園調布の辺りは武蔵野台地の端(はな)で起伏が多いので、台地の上を通っている平らな環八の方から行くことにして、この辺りかな?と見当をつけて南に曲がってみると、ちょうど「左篭谷戸」の表示がある所に出ました\(^o^)/。

 

でも、「あれ?」と思ったのは、入り江なら低い所にあるはずなのですが、右の道は多摩川に向かって急激に下っているのに、表示にある左の道は上っていたのですよね。

 
イメージ 1

 
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この表示があったのは尾山台で、先日行った宇佐神社と松高山傳乗寺はこの坂の西(右)側にあり、篭谷戸は東(左)側にあったのですね。この坂は「寮の坂」という名前のようです。

 

「時の奥沢城主・大平出羽守は、上流から運ばれた武器の類を篭谷戸 寮の坂辺りで陸揚げして城に運び込んだと伝えられている」と記されていますから、この坂の付近に港と船着き場があったようなのですが、その港へ行くのになぜ上るのだろう?と疑問に思いながらも表示に従って上り、道なりに左に曲がるとその突き当りに↓の表示がありました。

 
イメージ 3

 

「おもいはせの道・谷を眺る丘」となっていましたから、ここから見下ろす谷がかつては多くの人や物が行き交っていたという船着き場があった場所のようです。そこから下を見ると、確かにかなり深く落ち込んでいることが分かりました。

 
イメージ 4

 

そこには下に向かう階段があったので、それではここが野毛古墳群と多摩川台古墳群を隔てていた深い大きな谷で、中世にもまだ港だった篭谷戸なのか、と階段を下りてみました。

 
イメージ 5

 

下りきった道の西側の住所表示は「尾山台」、東側の住所表示は「玉川田園調布」となっていましたから、確かにこの谷が世田谷区と大田区の境で、多摩川台古墳群と野毛古墳群を隔てていた谷だったようですが、ここは現在の多摩川からは1kmくらい内陸です。もしここまで川だったなら、対岸も同じ高さまで川だったはずですが、多摩川の川幅がそんなに広かったはずはありませんから、やはりここは多摩川ではなく海だったのだと思います\(^o^)/。

 

ネコビタイ便り


赤いヒガンバナも咲いてしまったのですが、8月の日照時間が異常に少なかった影響でしょうか?


シロバナヒガンバナ

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 ヒガンバナ
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以前は大災害というと何百人・何千人という単位の被害だったような気がするのですが、しばらく前から、何万人・何十万人という単位になってきていますよね。ところがハリケーン・ハービーでは100万人が避難したと聞いてその数に驚いていたら、ハリケーン・イルマでは650万人が避難したそうです。

 

人口が増えて危険な場所にも人が住むようになったということもあるのでしょうけれど、自然災害に見舞われて被害に遭ったり避難を余儀なくされたりしているのはアメリカだけではありませんから、やはり地球規模の生物の大量絶滅が始まっているのかもしれません<(_ _)>

 
 

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