2017.9.7 「塙」って?94 武蔵野台地の端(はな)83 荏原台古墳群4
旧石器時代の川崎の地形
画面中央の二本の線路は左が東急東横線、右が新幹線で、新幹線のすぐ右にある「へ」の字形の島が白山古墳のあった加瀬山です。夢見ヶ崎(加瀬山・一文字山)は、やはり以前に推理したように島であり、線路はかつては海の底だった平らな所を選んで敷かれていたのです\(^o^)/。
新幹線は、加瀬山の対岸にある多摩丘陵の端(はな)の日吉台を、迂回せずにトンネルで貫いて抜けて行っているのですが、この縄文時代は海に面していた台地の端(はな)にも遺跡や古墳が多数あったようです(^o^)。
日吉台の端(はな)
この急な坂の上にはテクノロジーセンター棟がありました。
新幹線はこの丘の下をトンネルで抜けて行きます
日吉台と蝮谷
この丘陵上にあった住居跡
この丘陵地の麓は海であり、川崎駅周辺はその頃は完全に海の底だったのですが、この海を挟んだ対岸が荏原台古墳群のある荏原台なのです。
田園調布八幡神社と照善寺の東には西岡31・32号墳があり、その近くには、やはり前方後円墳ではないかと考えられている「西岡第19号古墳」があったそうですが、もし西岡31・32号墳と19号墳が本当に前方後円墳だったのであれば、天津族の東征を受ける前の大国主時代にこの地を支配していた国津族の王族の墓だったのかもしれません。でももしそれらが前方後円墳ではなく、野毛大塚古墳と同じような帆立貝型の古墳であったなら、東征してきた天津族の王族の墓だったのかもしれませんね。現存していないのでもう確かめることはできませんが(T_T)。
多摩川台の前方後円墳・亀甲山古墳
この古墳は箸墓古墳の約三分の一のスケールで作られています。
野毛の帆立貝型古墳・野毛大塚古墳