2017.9.6 「塙」って?93 武蔵野台地の端(はな)82 荏原台古墳群3
会津からも三角縁神獣鏡が出ていること、『古事記』には北陸将軍・オオヒコノミコトは北陸平定後に会津に向かい、太平洋側を平定しながら北上してきた息子の建沼河別(たけぬなかわわけ)と会津で合流したと記されていることから、北は新潟・会津あたりまでが大国主の傘下にあったのではないか?当時、日本海と太平洋は水路で繋がっていて、会津盆地は「津」だったのではないか?と考えて昨年の夏に会津に行ってみたのですが、会津盆地はやはり海だったようです。塩も採れますしね(^_-)。
三角縁神獣鏡が出土した一箕古墳群の会津大塚山古墳
古墳の配置は↓のようになっていましたが、やはり古墳が造られたのは、海に面した高台だったようです。
先日行ってみた川崎市民ミュージアムには、多摩川低地の埋め立てに使われてしまったため今はもうない夢見ヶ崎の白山古墳の模型や旧石器時代の川崎の地形の模型が展示されていて、「当時川崎駅は海の底でした」という解説もありました\(^o^)/。この古墳から出た三角縁神獣鏡は、会津大塚山古墳の物と同じ型で作られたものなのです。
白山古墳 埋葬部分が見えるように半分が透明になっていました。
『記紀』を信奉し、ロマンに浸って机上でつじつま合わせばかりしている歴史学者さんたちは現実を見ようとはしないようですが(^_-)、実際に行ってみれば地形は一目瞭然ですし、推理のウラを取るために郷土資料館に行ってみると、それぞれの地方の資料館にはその足元にある現実に根ざして「ここは海だった」とちゃんと書いてあるのですよね(^o^)。
例え今は世界一高い山になっているとしても、ウミユリやアンモナイトの化石がいくつも出て来るのであれば、そこは初めから山の上だった訳ではないのです。