2017.9.4 「塙」って?91 武蔵野台地の端(はな)80 荏原台古墳群
次大夫堀で世田谷の武蔵野台地の端(はな)から川崎の多摩丘陵の端(はな)に飛んでしまいましたが、武蔵野台地の端(はな)に戻ります。8.29の続きです。
田園調布八幡に行った時には、近くに古墳があることをまだ知らなかったので、古墳の方には行ってみなかったのですが<(_ _)>、西岡31号墳には隣接して32号墳があり、この2基の古墳の出土遺物が同時期のものであることから、この2基は1基の前方後円墳ではないかとも考えられているそうです。
同じような思い違いや思い込みは他にもたくさんあるようで(^_-)、2009年に多摩川台古墳群に行ってみた時、「多摩川台古墳第1+2号墳」という奇妙な名前を見て「なに、それ?」と思ったのですが、これは、初めは別々の二つの古墳だと思われていたものが、後に一つの前方後円墳だったことが分かったのだそうです(^o^)。その他にも、帆立貝型古墳や八角形墳もみな円墳とされてきたのですよね。
上円下方墳とされてきた天智天皇の御廟野古墳が八角形墳だったことが判明したのは1970~80年だそうで、2015年には初めて許可された立ち入り調査で八角形であることが確認されたようですが、この古墳はずっと「上円下方墳」であるとされていたため、御廟野古墳に倣って造られた明治・大正・昭和の天皇陵は上円下方墳に造られてしまったのです(^o^)。
https://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/42040662.html
昭和天皇武蔵野陵
西岡31号・32号墳は、今は宅地になってしまって現存していないそうですが<(_ _)>、この古墳から出土した埴輪は5世紀前半に作られたもので、荏原台古墳群では最古の埴輪であることが分かっているそうです。
これらの古墳が5世紀前半に造られたものなのであれば、多摩川台古墳群の前方後円墳・亀甲山古墳(4世紀後半から5世紀前半)と同じ頃か少し後であり、帆立貝型古墳である野毛大塚古墳(5世紀初頭)と同じ頃のようですが、崇神天皇は、4世紀末にヤマトの大国主を倒して河内に王朝を開いた後、トヨキイリヒコ・タケミカヅチ・フツヌシ・ワケイカヅチ・タケハヅチ(古事記に記された名前ですから、別名かもしれませんが)らを東国に派遣して東征を始めていますから、5世紀初めというのは微妙な時期で、この頃に造られた古墳が国津族の王族のものか天津族の王族のものかは、歴史学者さんたちの常套句のように単純に「畿内の王権と関係のある地方の豪族の墓と考えてよい」とするわけにはいかないのです(^o^)。