2017.9.2 「塙」って?90 武蔵野台地の端(はな)79 武蔵国造の乱
北武蔵のさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土し、国宝になった「金錯銘鉄剣」には、この頃の本当の歴史を知る手掛かりになる銘文が刻まれていました\(^o^)/。
この銘文から、534年の「武蔵国造の乱」は史実であり、「ワカタケル王」とは欽明天皇のことであって、その即位が539年だというのはウソで531年だったことなどが確認でき、この剣を作らせたヲワケ臣とは何者で、「ワカタケル王」とはどのような関係だったのかも分かってきました。
学者さんたちは「この剣に記された辛亥の年は471年で、ワカタケル王は雄略天皇」だとしているのですが、
ワカタケル王とは531年の辛亥の年に磯城で即位した応神天皇の孫の欽明天皇のことであり、残忍な大悪天皇とされている雄略天皇は『古事記』が創った架空の人物なのです。
『記紀』を信奉する学者さんたちは、「雄略天皇は実在の天皇で欽明天皇が即位したのは539年」だと思い込んでいるためにどうやっても年代のつじつまを合わせることができないので、辛亥の年は雄略天皇が在位していたとされる471年のことで、534年の「武蔵国造の乱」は『日本書紀』の創作であろうとすることでつじつまを合わせているようですが(^_-)、534年に起きた「武蔵国造の乱」の方が事実で、『記紀』が記した「雄略天皇」と「欽明天皇の即位年」の方が創作(ウソ)なのです(^o^)。
宮内庁が雄略天皇陵として囲い込んでいる古墳は円墳で、5~6世紀に天皇墓として造られていたはずの巨大な前方後円墳ではありませんし、その場所も宮があったという桜井市の朝倉からずっと離れた大阪の羽曳野市ですしね(^_-)。
北武蔵の墳長120mの前方後円墳である稲荷山古墳から出土し国宝になった「金錯銘鉄剣」に象嵌されていた銘文には、自分(ヲワケ臣)はオオヒコの7世の孫であって代々杖刀人の首(親衛隊長)を務めてきたこと、ワカタケル王が辛亥の年にシキの宮で即位し、自分はシキでそのワカタケル王を補佐していたこと、そのことを記しておくためにこの剣を作らせたことが記されていました。
国宝・金錯銘鉄剣
金錯銘鉄剣鉛筆 これはミュージアム・ショップで入手しました\(^o^)/
ヲワケ臣の上祖のオオヒコとは、崇神天皇の伯父で四道将軍のうちの北陸将軍を務めたオオヒコノミコトのことであり、ヲワケ臣はその7世の孫で天津族の王族だったのです。
その王族で、親衛隊長として磯城にいたはずのヲワケ臣の鉄剣がなぜ北武蔵にあるさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土したのかというと、531年の辛亥の年に即位した欽明天皇の命を受けて、534年に起きた「武蔵国造の乱」の鎮圧のために朝廷軍を率いて北武蔵にやって来ていたからでしょう。
笠原小杵を誅し乱を平定した後もヲワケ臣は磯城には戻ら(れ?)ず、北武蔵で没したためさきたま古墳群の稲荷山古墳に埋葬され、この金錯銘鉄剣は副葬品として遺体の側に置かれたようです。
ヲワケ臣は天津族の王族だったからこそ、豪華な副葬品と共に墳長120mの「稲荷山古墳」という大きな前方後円墳に丁寧に葬られたのです。北武蔵の支配者で武蔵国造となった笠原使主(かさはらのおみ)も、使主(おみ=臣)ですから当然土着の地方の豪族ではなく、この地の支配者として天津族から送り込まれた王族だったのです。もしそうでなければ、朝廷軍が加勢に来たりはしなかったでしょうしね(^_-)。さきたま古墳群は笠原使主の一族の墓であろうと思います(^o^)。
さきたま古墳群と稲荷山古墳
学者さんたちは、宮内庁が「天皇陵」だとしているもの以外の巨大古墳はみな「地方の豪族の墓」だとしているようですが、天皇陵に匹敵するほどの巨大古墳を造るような地方豪族があちこちにいたのであれば支配など成り立ちませんよね。王族は特別な存在であると位置づけるのが「王制」というものであり「身分制度」というものの根幹なのですから、王族以外の人に巨大な古墳を造ることなど許されたはずはないのです。
また、学者さんたちは「倭王・武」も雄略天皇だとしているようですが、「倭王・武」は477年、478年に宗の順帝に遣使し、478年に「安東大将軍倭王」に任じられた実在の人物なのですから、架空の雄略天皇ではありません。さまざまな情報を時間的に整合させ、誤りや偏見を排して実証していけば、雄略天皇が架空の人物であることも、「倭王・武」が応神天皇であることも論理的に分かるのですが、この推理については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第6章の3「謎の倭の五王を推理する」をご参照ください。