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「塙」って?89 武蔵野台地の端(はな)78 たちばなの丘

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2017.9.1 「塙」って?89 武蔵野台地の端(はな)78 たちばなの丘

 

古墳時代には海に面していた多摩丘陵の端(はな)のこの「たちばなの丘」には、橘樹郡の郡衙が置かれていたようです。

 
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この郡衙推定地の近くにある影向寺は、当時郡衙ごとに置かれた郡寺として造られた寺だったのではないでしょうか。近年の発掘調査によれば、創建は7世紀後半にまで遡ることが確実だそうですし、影向寺という名称はずっと後に付けられたもののようですから、元々は橘樹郡の郡衙に造られた「橘樹(の)寺」だったのかもしれません。

 

影向寺

 
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この一帯が534年に北武蔵の笠原使主と南武蔵の笠原小杵が国造の地位を争った「武蔵国造の乱」の時に、欽明天皇から派遣されてきたヲワケ臣の率いる朝廷軍の助力によって小杵に勝利し、武蔵国造となることができた笠原使主が、そのお礼に屯倉として欽明天皇に献上した南武蔵の4郡(横渟・橘花・多氷・倉樔)のうちの橘花(橘樹・たちばな)郡だったのですね。

 

学者さんたちは『日本書紀』に記されているこの出来事は伝承性が強く事実か創作か分からないとしているようですが、「武蔵国造の乱」は創作や伝承ではなく事実なのです(^o^)

 

学者さんたちが「カミサマが降臨して天皇になった」などという非論理的で荒唐無稽なオハナシは疑問も持たずに信じて一生懸命つじつま合わせをするのに、ちゃんと調べれば分かる事実を創作だと考えるのはなぜなのでしょうね~???

 

2009.4から始まったこのブログには、この出来事が事実であることを突き止めた過程の「現場検証の記録」や「それらから論理的に導き出した推理」や「その推理の検証と確認」も記してあるのですが、あまりにも量が多いので(^_-)、簡単には「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章の10「ヤマトタケルと欽明天皇とワカタケル王」をご参照ください

 

でもこれは、古代史に「事実との整合性や納得性を求める方」には読んでいただきたいと思いますが、「夢と謎めいたロマン」を求める方にはおすすめしません。洋の東西を問わず「おかしなことにあなたが誰かに神話の真相を教えてやるとすると、その人は神話を伝えた人のことは怒らないであなたのことを怒る。誰しも自分の考えていることをひっくり返されるのは嫌なのだ」(ジョセフィン・テイ著『時の娘』より)ということで、「でたらめもでたらめ!!」と怒りまくるだけのようですから(^o^)

 

2011年にこの本を出した時には、古代の海に関する推理を「でたらめ」だとか「奇を衒った説(某出版社の言)」だとかと思った方も多かったかもしれませんが、例えば「かつて秩父は古秩父湾という海だった」ということなどは、旧弊なオトナや学者さんたちはともかくとして、科学に興味を持つ子供達にとってはもう常識になりつつあるようですよ(^_-)

 
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