2017.8.31 「塙」って?87 武蔵野台地の端(はな)76 子母口貝塚
貝塚のある神奈川県幸区の夢見ヶ崎公園(=加瀬山=一文字山)は、縄文時代から人が住んでいた古東京湾の島であり、6世紀の欽明天皇の時代に起きた「武蔵国造の乱」の一方の当事者であった笠原小杵が支配していた南武蔵の一部で、小杵が反乱を起こして誅殺されるまでこの島には小杵一族の墓(古墳)が造られていたようです。
川崎市には、幸区の加瀬山だけではなく高津区の子母口(しぼぐち)にも縄文早期の貝塚がありますから、縄文早期にはその辺りも海だったのです(^o^)。この貝塚は、標高25mの丘の上にある7000年前頃の貝塚で、多摩丘陵上で最も古い貝塚だそうですから、7000年前の海面は標高25mに近い所にあったということなのでしょうね。そして古墳時代になっても、今はビルや住宅で埋め尽くされているこの丘の下から多摩川までの平地はまだ海だったのです。
子母口貝塚
多摩丘陵の海に面した端(はな)であったこの子母口の丘にも古墳が造られていて、「海に身を投げたオトタチバナヒメの衣や冠がこの地に流れ着いた」と伝わっているのだそうで、近くの橘樹(たちばな)神社にはヤマトタケルとオトタチバナヒメが祀られていました。
子母口富士見台古墳
橘樹神社
ヤマトタケルもその妻のオトタチバナヒメも『古事記』が作ったオハナシに登場する架空の人物ですから、オトタチバナヒメの衣が実際に流れ着いたりしたはずはないのですが(^_-)、「衣が流れ着いた」というオハナシが創られたということは、ここがその当時海岸だったということなのです(^o^)。
この古墳や神社がある所は、海からは遠い↓のような内陸の住宅地の中の坂の上なのですから、もしここが当時海辺でなかったのであれば、海からの漂着物がここに流れ着いたというようなオハナシが創られたはずはありませんからね(^_-)。
千年神社