2017.8.30 「塙」って?87 武蔵野台地の端(はな)76 次大夫堀
丸子川は自然の川ではなく人工の「次大夫堀」だったことが分かったことで思い出したのですが、2013年に多摩美術大の横の坂を下りた所に次大夫堀という農業用水があり、多摩川の対岸の川崎市にも同じ小泉次太夫が指揮監督して造った二ヶ領用水という農業用水があるということを知って、なぜ小泉次太夫は多摩川を挟んだ武蔵と相模の両国に用水を造ったのだろう?と疑問に思って行ってみたことがありました(^o^)。
当時の私は、多摩川の向うの神奈川県に「武蔵小杉」など「武蔵○○」という駅がいくつもあることを不思議に思いながらも、現在の東京と神奈川の県境の多摩川がそれ以前の武蔵国と相模国の国境(くにざかい)だったのだと思っていたのです(^_^.)。ところが調べてみたら、現在は神奈川県になっている川崎市や横浜市は相模国ではなく武蔵国だったことが分かりました。多摩川の両岸はどちらも武蔵国だったから同じ人が工事を指揮していたのですね(^o^)。
二ヶ領用水久地分水樋
現在の久地分水筒
武蔵国と相模国の国境(くにざかい)が多摩川ではなかったことに疑問を持って地形を調べてみたことから、多摩川周辺の沖積低地は古代には古東京湾の一部の海で中世にもまだ海だったことや、貝塚がある川崎市幸区南加瀬の高台にある「夢見ヶ崎公園」は古墳時代には島だったことなどが分かってきました(^o^)。
律令時代に多摩川が国境とされなかったのは、相模国・武蔵国の範囲が定められた当時は多摩川周辺の沖積低地はまだ一面に海で、多摩川はまだなかったからでしょう(^o^)。江戸時代の国境は「武相国境道」と呼ばれる東京湾と相模湾の分水嶺にあたる尾根道だったそうです。
逆に、明治時代に徳富蘆花が粕谷村(現在の芦花公園)に引っ越した頃には、多摩川の西側はもちろんのこと、多摩川の東も千歳村まで神奈川県になっていたようですが(^o^)。
律令時代の「武蔵国」が「埼玉」「東京」「神奈川の一部」と3つの県にまたがった地域だったのは、当時の地形で考えると古墳時代には関東平野はまだ行田市の辺りまで古東京湾の海面下であり、多摩川周辺の沖積低地もまだ海だったために国としての陸地の面積は広くなかったからで、古墳時代の武蔵国の中心が北武蔵の行田にあったのは、都から行田まで船で直接往来できたうえ、当時の東国の中心だった上野国にも近く、その頃には多摩川周辺より標高の高い行田の辺りは内陸部から次第に陸地化してきて水田が作れるようになっていて豊かになってきていたからであり、律令時代になって武蔵国の中心が北武蔵の行田から南武蔵の府中に移ったのは、海退と共に古東京湾が陸地化して北武蔵は内陸部になってしまって水運の便が悪くなったからであろうと思います(^o^)。