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「塙」って?82 武蔵野台地の端(はな)71 出城と八幡神社

2017.8.22 「塙」って?82 武蔵野台地の端(はな)71 出城と八幡神社

 

世田谷七沢は、奥沢、深沢、野沢、北沢、吉沢(二子玉川付近)、馬引沢(上馬・下馬付近)、廻沢(千歳台付近)、八八幡は、北澤八幡神社・太子堂八幡神社・世田谷八幡宮・駒留八幡神社・代田八幡神社・勝利八幡神社・八幡山八幡社・粕谷八幡神社の八社のことのようなので、これらの神社の位置を確かめてみたら、世田谷城の北西から南東にかけて分布していたのですが、奥沢城は世田谷城の南にありました。

 

あれ?と思ったのですが、出城が領内の住民の管理と徴税のために置かれた税務署や城の出張所のようなものだったのであれば、吉良氏は、自領内の東西南北にくまなく出城を置いていたはずですよね(^o^)

 

粕谷八幡から1km の所にあった廻沢村の廻沢稲荷も、そこから1km離れた所にあった祖師谷村の神明社も、ここまで推理したようにやはり八幡神社であり、出城の跡だったようです(^o^)。吉良氏には氏神としていた八幡神を祀る理由はあっても、稲荷やアマテラスを祀る理由は全くありませんものね(^_-)

 

そして、これまでに行ってみた八幡社(出城址)は、全て交通の要衝に置かれていました。世田谷八幡・粕谷八幡・八幡山八幡は烏山川、勝利八幡は北沢川、祖師谷・廻沢は仙川、奥沢は九品仏川の水運を利用していたようです。

 

それでは、残りの北澤八幡神社・太子堂八幡神社・駒留八幡神社・代田八幡神社の位置と地形も確かめてみなければ、と思ったのですが、奥沢城が吉良氏の出城であったなら、西と南にも奥沢城だけではなく出城と八幡神社があったのではないか?と考えて地図を探してみたら、南の丸子川沿いにも尾山台宇佐神社と田園調布八幡神社があることが分かりました\(^o^)/。距離はやはり、奥沢城~尾山台宇佐神社は1km強、尾山台宇佐神社~田園調布八幡神社は700mくらいのようです。

 

西は、千歳村は明治26年までは「神奈川県北多摩郡千歳村」だったのですから、吉良氏の時代の世田谷郷の西端は粕谷八幡や祖師谷神明社が置かれた辺りまでだったのかもしれません。

 

宇佐神社は八幡神を祀る神社ですから、それではここにも吉良氏の出城があったのではないかと思い、尾山台宇佐神社~田園調布八幡神社~奥沢神社~奥沢城址~八幡中学校とまとめて実地検分してくることにしました(^o^)。遺跡や歴史は点ではなく、線や面で見て考える方が関連や位置関係や因果関係がよく分かりますから(^o^)


現在の世田谷区は、仙川、野川まで含む赤い破線の区域ですが、吉良氏の時代の世田谷郷は、仙川が境界だったのかもしれませんね。


↓は画面中央辺りが「つりがね池」になっていますが、その北東に廻沢稲荷があり、西の仙川に面するハケ上に祖師谷の神明社がありました。


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