2017.6.19 「塙」って?24 武蔵野台地の端(はな)15 中里貝塚9
中里貝塚は長さ1km、幅が70~100㎝にも渡る大規模な貝塚なのに、周辺には住居跡もなく、生活道具も出土していないことから、そのつじつまを合わせるために「人々は台地の上の村に住んでいて、貝の採れる季節になるとここに集まって共同作業で貝を加工していたのです」というオハナシが創られたようです(^o^)。
2015年にこれを見た時、それほどに大量の貝を遠くの海まで採りに行ってわざわざここまで運んできて加工していたはずはないから、西ヶ原の台地の下は当然海だったはずだけれど、どこでも貝の層が集落の周りから出てくるのは、人々が「その時代の海」の傍の暮らしやすい所に住んで、自分たちが食べた貝の殻を集落の周りに棄てていたからだと思われるのに、集落から離れた場所にあちこちから集まって来て共同作業をしていたというのは本当かな~?と疑問に思いました(^o^)。
西ヶ原貝塚広場
貝塚の説明板は飛鳥中学校にあるようだったので飛鳥中学校へ行ってみようと思ったのですが、この貝塚広場は飛鳥中学校の東のマンションの敷地の一角にありました。右側の貝層があった場所のようです。
貝の層と土器
中里貝塚からは土器は出ていないということなので、私はこの貝塚は土器が使われる前の先土器時代のものなのではないか?と考えたのですが、西ヶ原の遺跡からは土器が出ているのですから、もし西ヶ原の集落の人々が崖下で貝の加工をしていたのなら、貝を煮るのに土器を使ったはずだとは思いませんか?
ところが中里貝塚では、砂を掘って粘土を貼り、その中で貝を蒸したり煮たりしていたようです。
貝を蒸すための施設と思われる木枠付き土坑
もし土器があったなら、土の上で直接貝を煮たりはしなかったのではないでしょうか(^_-)。
良く見たら、一番上の「絵とオハナシ」の下の方に「この絵と文は、現段階の調査成果を元に想像を交えて作成したものですから、今後の調査によって修正される可能性があります」と記されていたので、何時のものかと思ったら、平成17年3月に設置されたものでした。今年は平成29年ですからもう12年経っているわけですが、全く修正はされていないようです。ここにも記されているように、「学説」や「定説」って「その時点ではそう考えられた」という程度のもののようなのですが、
『古事記伝』が発表されると、歴史学者さんたちは検証もせずにそれを「既定の事実」として、その虚構の上につじつまを合わせる自説を数限りなく積み上げてきたようですが、この「中里貝塚は縄文中期の貝の加工場で、村々が共同で作業をしていたのです」というオハナシも「既定の事実」とされていて、修正される代わりにその上にさらなる虚構のオハナシが積み上げられているのでしょうか?