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「塙」って?23 武蔵野台地の端(はな)14 中里貝塚 中里貝塚と雷下遺跡

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2017.6.18 「塙」って?23 武蔵野台地の端(はな)14 中里貝塚8 中里貝塚と雷下遺跡
 
34万年前(ひょっとすると78万年前?)から日本列島には人が住んでいたのですから、低地にある中里貝塚の膨大な量の貝は「縄文中期の中頃から終りにかけての500年間に集中的に形成されたもの」ではなく、ここで暮らしていた人々が、何千年(ひょっとすると何万年?)にも渡って食べたものなのではないでしょうか(^o^)

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中里で↑の丸木舟が見つかったのは1984年の東北新幹線大宮~上野間の準備工事中だったそうですが、台地の下から縄文中期(その鑑定が正しければ、ですが)の丸木舟が出てきたのは、4200年前頃には西ヶ原や七社神社など台地の上に集落を作って住んでいた人々が、海退によって台地の上は海から遠くなって不便になってしまったため、3200年前頃から再びウォーターフロントになっていた台地の下に移動していたからかもしれません(^o^)。どこにでも好きな所に住むことができるのに、わざわざ不便な所に住み続ける理由はありませんものね(^_-)

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丸木舟と言えば、真間の手児奈が身投げをした国分台地の下からも丸木舟が出土しています。
 
市川市国分の雷下遺跡から丸木舟が出土したのは2013年で、東京外郭環状道路(外環道)の建設の時だそうですが、ここの貝塚の貝も、ハマグリやカキ類、ハイガイ、アカニシなどだそうですから、やはりこの雷下遺跡もハマグリやカキ類が生息する海だったのです。
 
市川の台地の端(はな)は貝塚の密集地であり、昭和33年には現在の市川駅と本八幡駅間の本八幡寄りの辺りでコククジラの化石が出土しているのですが、このクジラの化石と復元模型は、2011年に「古代の地形から『記紀』の謎を解く」に書いた「市川の台地の下は海だったのではないか」という推理を検証するために出かけて行った堀之内貝塚の市川考古博物館に展示されていました\(^o^)/。

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この市川考古博物館に行った時、2013年に丸木舟が出土したことを知ったのですが(^o^)、その時は出土したばかりで展示も説明もまだ無かったので、「雷下遺跡」がどこにあるのか分からず、現場も出土した舟も見ることはできませんでした<(_ _)>。でも、丸木舟が出土した場所は海抜21mの国分台地の下の沖積低地であること、遺跡のある場所は海抜6mの低地であること、貝の種類はハマグリやカキ類であることなど、中里貝塚と雷下遺跡は瓜二つのようです(^o^)
 
中里の丸木舟は4700年前の縄文中期、雷下遺跡の丸木舟は7500年前の縄文早期のものと記されていて、よく似た場所から出たこの二つの舟が造られた時期には(その鑑定が正しければ)3000年近くの開きがあり、中里貝塚は縄文中期の後半のもの、雷下遺跡は縄文早期のものとされていましたが、この4700年前だとか7500年前だとかというのは、どのくらい信用できるものなのでしょうね???
 
雷下遺跡では地下46mの深さから縄文時代早期の遺物を含む包含層や貝層が見つかっているそうですが、70006000年前頃は海進のピークで、海抜68mのところは海底だったはずですから、私はこの貝層も7500年より前のものだろうと思うのですが。
 
貝塚があるから縄文時代の遺跡に違いない→貝塚の近くから縄文中期の丸木舟が出土した→それならこの舟と貝塚は縄文中期のもののはずだ
 
縄文時代早期の遺物を含む貝塚の近くから丸木舟が出土した→それならこの貝塚と舟は縄文時代早期のもののはずだ
 
というような先入観や思い込みが舟の年代の判定に影響してはいないでしょうか(^_-)
 
何万年か続いていた旧石器時代(先土器時代)の人たちも貝類を食べていたはずですから、貝塚は縄文時代だけのものとは限りませんし、貝塚と舟が同時代のものとも限らないはずです。低地の貝塚は2万年~6000年前の海進期のもので、舟は6000年前以降の海退期のものである可能性もあると私は思うのですが(^o^)




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