2017.6.17 「塙」って?22 武蔵野台地の端(はな)13 中里貝塚7
2015年に「中里貝塚」という貝塚が東京にあることを知って、貝塚があるのならそこは海辺だったはずだけれどどこにあるのだろう?と行ってみたら、そこは線路だらけの場所でした。
私はそれまでこんなにたくさんの線路がある場所を見たことがなかったのでその景色にまず驚き、いったいこの線路の中のどこに貝塚があるのだろうと呆然としてしまいました。貝塚はかつて海だった低地に面した台地の端にあるものと思っていたのですが、そこは線路だらけの全くの平地で、貝塚のありそうな地形ではなかったのです<(_ _)>。(↑の資料は後から入手したものです)
案内板も見つからないまま「上中里2丁目」という住所だけを頼りに探し当てた場所は、周りをたくさんの線路に囲まれた中にある住宅地の一角だったので、なぜこんなにたくさんの線路の中に島のように住宅地があるのだろう?と不思議に思ったのですが、これは線路の中に住宅を作ったのではなく、住宅が先にあって後から線路が敷かれたようですね。
上中里2丁目の北側の線路の向こうは「昭和町」となっていますから、旧滝野川村だったこの一帯は昭和まで水田で、北側のたくさんの線路は、水田だった平地に敷設されたものなのでしょう。上中里2丁目の南側の線路は台地の裾の斜面を平らに削って敷設されたようですから、その結果として以前から水田の中の微高地にあった住宅地は、周りを線路に囲まれた島のようになってしまったのでしょう。ここには↓のような説明板があったのですが、
そして下に岩盤があるということは、やはり昨日推理したようにここは砂州ではなく舌状台地だったということでしょう(^o^)。岩盤でさえ波に浸食されてしまっているのに、ただの砂地が何千年も同じ形で残っているはずはありませんよね(^_-)。
さらにここには「この貝塚は縄文中期の中頃から終りにかけての500年間に集中的に形成されたものだ」とも記されているのですが、住居跡も生活道具も出土していないのに、何を根拠にそう言い切っているのでしょうね??? 縄文中期の中頃から終りにかけては、ここは海底であって貝塚など造られたはずはないと私は思うのですが(^_-)。縄文中期どころか、7世紀になっても台地の下はまだ海だったのです。真間の手児奈は20mの国分台地の端から下の海に身を投げて死んだのですから。
8世紀にこの話を聞いた行基は、手児奈の霊を慰めるために真間山と呼ばれていた市川市真間の台地の上に弘法寺を開き、今は陸地となっている台地の下には、手児奈霊神堂が造られています(^o^)。
手児奈霊神堂と手児奈が身投げした海の名残の池
ところで昨日、千葉市の「加曽利貝塚」が貝塚としては初めて国の特別史跡に指定されることになったというニュースがあったのですが、「市原市の磁場の逆転を示す百尾層」「千葉市の加曽利貝塚」と大きなニュースが続いていますね。「チバニアン(千葉時代)」が到来したのかも(^o^)。
けれど、もし南北1kmにも及ぶ中里貝塚の成り立ちが昨日推理したようなものであれば、貝層の北から南への移動は1万年前頃からの海面の高さの変化とその時期や海進の速度を表すものであり、場所ごとの貝層の厚さの違いは、海面がその高さ近辺に留まっていた期間の長短を示すものでしょうから、「縄文中期の中頃から終りにかけての500年間に集中的に形成されたものだ」などという根拠のない思い込みを捨てて論理的に見るならば、中里貝塚こそが歴史的価値のある「特別史跡」に認定されるべきものだろうと私は思います(^o^)。
でも貝塚が線路の下にあるということは、筑波鉄道の線路の下になっていたため遺構がそっくり残った「小田城址」と同じように、開発で完全に破壊され消滅してしまうという心配はないようですから、これは幸いなことなのかもしれませんね(^_-)。