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「塙」って?21 武蔵野台地の端(はな)12 中里貝塚6

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2017.6.16 「塙」って?21 武蔵野台地の端(はな)12 中里貝塚6
 
明治29年に描かれた「中里貝塚を飛鳥山続きより望みたる図」


イメージ 1


ここからは海中でカキをつけるために立てたと思われる杭列が検出されていて、世界に先駆けて養殖をしていたことも考えられるそうですが、殻が大量にあって粒ぞろいであることを見るとそうかもしれませんね(^o^)

畑になっていた貝塚周辺(茶色の部分)は、水田地帯より標高が高いようですから、1万年前には海に突き出した舌状台地だったのでしょう。すると年に1㎝ずつ海面が上昇してきてこの舌状台地が水没してしまうまで、ここは貝を養殖したり採取したり加工したり殻を捨てたりする場所だったのでしょうね(^o^)
 
「この中里貝塚は、東京都北区の飛鳥山の台地の下に細長く突き出た、かつての砂州の上に形成されていて武蔵野台地を下から上を見上げるような低地にある。」
 
と記されていたのですが、これが砂でできていた砂州なのであれば、この2万年の海面が上昇してくる過程や、何千年もの間海面下にあった間の堆積や、海退によって陸地化していく過程での水の動きで平らになってしまったでしょうから、これは砂州ではなく舌状台地で、砂州のように見えたのは、この台地が海面下にあった間に砂が厚く堆積していたからではないでしょうか(^o^)
 
1万年前のこの舌状台地の先端は、↓のイラストのようだったのでしょうね。


イメージ 2

 
この貝塚の貝の量から見て、かなり長い期間人々はここで暮らしていたようですが、この貝塚のある場所は海抜8mで、台地の先の尾久や隅田川の辺りで海抜5mですから、この舌状台地は北に向かって低くなっていたようです。
 
この舌状台地は、尾久の方から武蔵野台地の裾の中里の方に向かってだんだん高くなっていて、当時の人々の住居は8m以上の武蔵野台地の裾にあったのかもしれません。
 
現在、武蔵野台地の裾にはたくさんの線路が敷設されていますが、台地の裾がいきなり平らになっているのは不自然ですから、線路を敷設するためにこの台地の裾を8mの高さで平らにし、その時に8mの貝塚と現在の武蔵野台地の裾の間にあった当時の人々の住居跡が失われたのではないでしょうか。
 
この貝塚は南北に1kmに渡って続いているそうですが、そんなに長い貝塚になっているのは、この台地の端が海進によって北の方から徐々に水没して来るにつれて生産や作業の場であるウォーターフロントが海抜3mの北から海抜8mの南へと移動していったからではないかと思うのですが(^o^)
 
イメージ 3

 
イメージ 4

スケッチに描かれた畑(舌状台地)と貝塚は位置や形状が一致しているようです\(^o^)/。
 
海面の上昇は平均すると1年に1㎝ほどだったようですから、この舌状台地が完全に水没して人々が台地の上に移動しなければならなくなるまで、かなりの年月があっただろうと思いますが、その間ずっとこの微高地は貝の養殖や加工や貝殻の捨て場として使われていたのでしょう。この貝塚に積み重なった貝殻の膨大な量はその年月を物語っているのではないでしょうか(^o^)





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