Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

「塙」って?19 武蔵野台地の端(はな)10 中里貝塚4

$
0
0

2017.6.14 「塙」って?19 武蔵野台地の端(はな)10 中里貝塚4

 

飛鳥山博物館には↓のような解説があったのですが、


イメージ 1

 

この貝塚から土器がほとんど出土しないのは、土器がさかんに作られるようになる以前の縄文草創期~前期の貝塚だからではないでしょうか(^o^)。周囲に住居跡がなく道具類も出土しないのは、この辺りは海面の上昇によってその後何千年も海底になっていたため、生活の痕跡が消えてしまったのかもしれません

 

この中里貝塚の貝層の一番下からは自然のままのヤマトシジミの貝層が出てきたそうですが、これはその頃ここがまだ海辺ではなく、ヤマトシジミが生息する汽水域だったことを示しているのではないでしょうか。

 

その後の貝層はカキ(マガキ)とハマグリが大半を占め、春先のカキと初夏のハマグリが交互に貝層を形成して4.5mも堆積しているそうですから、海進期に入ってカキ(マガキ)やハマグリが繁殖する海になり、その海だった期間が長く続いたということだろうと思います。

 
イメージ 2

 

また↑を見ると、海抜21mの西ヶ原貝塚付近は4200年前頃の縄文後期にはハマグリが豊富に採れる海辺だったけれど、晩期になると海面が下がったためヤマトシジミが生息する汽水域になってハマグリは採れなくなったということのようです。


西ヶ原貝塚の剥ぎ取り標本
 
イメージ 3

 

↑の42003200年前の西ヶ原貝塚の貝層をみると、時代が下るに従って貝の種類が変わり、数も少なくなってきているようですから、この貝塚が3200年前頃で終わっているのは、海退によって海が遠のいてそれまで暮らしていた台地の上はヤマトシジミしか採れない不便で暮らしにくい場所になったために、人々はこの集落を捨ててもっと暮らしやすいウォーターフロントへ移住したということなのではないでしょうか(^o^)

 

自給自足ではなくなった現代でさえ町の中心は洪積台地上から沖積低地や埋め立て地のウォーターフロントへとどんどん移っていって、洪積台地上の江戸時代からの古い町はシャッター街になってきていますし、昭和までは憧れの町だった丘陵地の高級住宅街は今ゴーストタウン化しつつあるのだそうです<(_ _)>。こちらには日常の暮らしの不便さの他に「高級」を維持するための規制の厳しさや相続問題など、人為的な理由も多々絡んでいるようですが。

 

42003200年前の1000年間の西ヶ原貝塚の貝層が↑の写真くらいの厚みなのに対して、中里遺跡の貝層は↓のように4.5mもあってその量が桁違いのようですが、これは、海抜21mの西ヶ原では3200年前頃には海退によって貝が採れなくなってしまったのに対して、海進期の中里では貝が豊富に採れる期間が長期間に渡って続いていたことを示しているのではないでしょうか?

 
イメージ 4

 

もしこの貝塚が、土器がさかんに使われるようになった縄文中期の大規模な水産加工場であったなら、貝の加工や塩の製造に使われて熱で割れた土器がたくさん出てくるはずですが、土器はほとんど出ていないのですから、縄文中期の加工場だったとは思えませんし、そもそもこの高さは江戸時代まで海だったようですから、海進のピークの70006000年前以降に加工場があったはずはないと私は思います(^o^)

 
 
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles