2017.6.13 「塙」って?18武蔵野台地の端(はな)9 中里貝塚3
中里貝塚は海進期の縄文中期の貝塚ではなく、9000年前頃から地球が温暖化して海面が上昇し始め、8m近くまで上がって来た縄文草創期~前期の貝塚なのではないか?と考えたのですが、この貝塚に隣接して「中里遺跡」があるそうです。
もし隣接する中里遺跡に縄文中期の住居跡があるのであれば、海抜8mの台地下は縄文中期には陸地だったということになり、ここまでの推理は全部間違っていたということになるのですが、昨日書いたような東京の周囲の千葉・茨城・埼玉の貝塚の位置と海進期の海面の高さを考えると、縄文中期に海抜8mのところが人の住む陸地だったとは考えられないので、「中里遺跡」とはどういう遺跡なのか、本当に縄文中期の住居跡や暮らしの痕跡が出土しているのかを知るために日曜日に飛鳥山博物館に出かけてみました。
博物館には中里遺跡から出土したという丸木舟と、出土した時の写真が展示してあっただけでそれ以外の説明は何も無かったのですが<(_ _)>、出土したのは丸木舟だけなのでしょうか?もしそうであれば、丸木舟が出土したということは、舟は海で使われていたものなのですから、その時代にはそこが人の住む陸地ではなく、海か海辺だったということを示しているのだと私は思うのですが(^o^)。
中里遺跡から出土した丸木舟
関東平野では、これまで縄文後・晩期の丸木舟が50艘以上発掘されていて、最近では2013年に市川市国分の雷下(かみなりした)遺跡から、国内最古の約7500年前(縄文時代早期)の丸木舟が見つかっていますし、福井県の鳥浜では、海からは遠い仏浦の水田で田を作ろうとしたら丸木舟や櫂がいくつも出てきたというお話を地元の方から伺いました(^o^)。丸木舟が出てくる沖積低地(現在の平野)は縄文時代には海だったのです。
もし、「縄文中期の丸木舟が出土した」ということが「中里貝塚は縄文中期の貝塚である」とされた根拠であるなら、これは千葉や茨城や埼玉や福井の平野と同様に、この平野が縄文中期には海であったことを示すものであって、縄文中期にここが陸地であったことを示すものではないと私は思います。
今でこそ住宅街になっていますが、江戸~明治時代にはこの低地は風光明媚な水田地帯(低湿地)だったのですし(^o^)。
明治29年の中里貝塚付近の様子(下方のイラスト)