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「塙」って?17 武蔵野台地の端(はな)8 中里貝塚2

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2017.6.11 「塙」って?17 武蔵野台地の端(はな)8 中里貝塚2

 

これまでに見た縄文時代の貝塚は、武蔵野台地の端(はな)に限らず、どこでも洪積台地の端(はな)にあったので、私はそれらの貝塚が残された頃の海岸線はその貝塚の高さの近くにあったのだろうと考えたのですが、飛鳥山では、西ヶ原貝塚や七社神社裏貝塚は海抜21mの洪積台地上にあるのに、同じ時代の中里貝塚はそれより13mも低い洪積台地の下の海抜8mの所にあるというのですよね<(_ _)>

 

茨城県土浦市の上高津貝塚 海抜27mの台地の端(はな)で、右手の台下は霞ヶ浦に続く低地 

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茨城県稲敷郡美浦村の陸平貝塚 海抜27m台地の端(はな)で、台下は霞ヶ浦に続く低地 

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千葉県市川市の姥山貝塚 海抜21mの台地の端(はな)

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千葉県千葉市の加曾利貝塚 海抜30mの台地の端(はな) 
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埼玉県岩槻市の貝塚も台地の端(はな) 

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埼玉県富士見市の水子貝塚 「富士見市に海があった頃」の海抜16mの台地の端(はな) 

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茨城県水戸市の大串貝塚 海抜16mの台地の端(はな)
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というように、これまでに見た縄文時代の貝塚は、みな洪積台地の端(はな)にあったのですが、21mの台地上の西ヶ原貝塚や七社神社裏貝塚と同じ時代のものだとされている中里貝塚は、洪積台地の下の低地にあるのです<(_ _)>

 

海抜8mの台地下は、海進期だった縄文中期には海面下であって貝塚が形成されたはずはないのではないか?と疑問が募りました(-_-)

 

こういう場合学者さんたちは、このことには触れずに都合の良い所だけを並べるか、「地面が落ち込んだと考えればよい」というようなつじつま合わせをするか、「これは特殊な例で謎である。後世の研究を待ちたい」として逃げるというような手法をとるようですが(^_-)、「古代史探偵」としてはそのような手を使う訳にはいきませんから、ホームズのように、たちどころにいくつもの仮説を思い付いたりすることはできませんが<(_ _)>、ああか、こうかと論理的にありうる状況を考えてみました。

 

海の中に貝塚ができたはずはありませんから、この貝塚ができた頃、海抜8mの所は陸地で海辺だったはずですが、それはいつ頃のことだったのでしょうか?

 

4000~3000年前には、海面は20m付近にあり、現在は0mの所にあるのですから、4000年前から現在までの間に海岸線が8m位のところにあった時代があるはずですが、それはかなり時代が下ってからのことであって、弥生時代以降は農耕が始まり、人々はもう貝塚を作るような生活はしていなかったようですから、この貝塚は縄文時代以降のものではないでしょう。

 

そうであれば中里貝塚は、縄文海進期に入る前にすでに造られていたのではないでしょうか?

 

2万年前の氷河期には海面は今より100mも低い所にあり、東京湾の出口付近まで陸地になっていたのですから、9000年前頃から地球が温暖化してきて海進期に入り海面が上がってくる過程で、8mの所が海岸線になっていた時期があったはずですよね。

 

2万年前の海岸線 

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中里貝塚は海進が進んだ縄文中期の貝塚ではなく、それ以前のまだ海面が8m以下だった頃に形成されたものなのではないでしょうか(^o^)


 

ところで、千葉県は千葉セクションの白尾層の地層がある所まで遊歩道を整備することにしたようです(^o^)。この夏に出かければ、場所も分かり資料も入手できるのでしょうね。関心を持ったのが早過ぎたようです(T_T)

 
 
 

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