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「塙」って?14 武蔵野台地の端(はな)5 飛鳥山古墳群2

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2017.6.8 「塙」って?14 武蔵野台地の端(はな)5 飛鳥山古墳群2
 
飛鳥山にも67世紀の古墳群があったことが分かったので、これらの古墳群の被葬者は誰なのだろう?と考えてみました(^o^)
 
学者さんたちは、畿内以外の古墳はみな「地方の豪族の墓である」として片付けてしまっているのですが、学者さんたちの言う「地方の豪族」って何なのでしょうね?


それぞれの地方に天皇陵に匹敵するような大きな古墳を造る大豪族がいて、それぞれが自分たちの都合と論理で税を徴収していたのだとすれば、それは小国家の集合であって統一国家ではありませんよね(^o^)

また、地方に自分の支配地を持つ朝廷とは関係ない豪族たちがいたのであれば、その豪族たちは集めた税を自分たちの財産として自分たちで使い、誰もそれを朝廷に納めたりはしなかったのではないでしょうか(^_-)

学者さんたちの言う「地方の豪族」とは、朝廷の下部組織として朝廷から任命され、地方に派遣された地方官であり、支配階級に属する王族や貴族だったのです。
 
6世紀前半に北武蔵の荒川流域を支配していたのは笠原直使主(かさはらのあたいおみ)ですから、この武蔵野台地の荒川流域側に古墳を残したのは笠原直使主の一族なのではないでしょうか。
 
「使主(おみ)」とは「臣」であり、王族であることを示すカバネでしょう。5世紀に応神天皇が我が子・ウジノワキノイラツコの教師として百済から招聘した百済の王族・阿知吉師(あちきし)は「阿直岐(あちき)」「阿知使主(あちのおみ)」とも表記されていますが、岐・支(キ)、吉師(キシ)、王(コニキシ)、使主(おみ)、臣(おみ)は王族のカバネだったようです。
 
百済の21代蓋鹵王(余慶 在位455475)の弟で、百済の王子だった応神天皇(余昆)は昆支(こんき)と記されていますし、その子孫の余善光は百済王(くだらのこにきし)氏、高句麗の王族・若光は高麗王(こまのこにきし)氏となっています。
 
この王族の笠原直使主が荒川流域の北武蔵(无邪志・むさし)を支配していた頃、多摩川流域の南武蔵(胸刺・むなさし)を支配していたのは同族の笠原小杵(かさはらのおき)だったのですが、534年にこの小杵が律令制への移行に伴って再編された「武蔵国」の国造の地位を狙って笠原直使主を殺そうとした「武蔵国造の乱」が起き、逃げ出した使主が大和へ上って朝廷に訴えたため、朝廷は武蔵に朝廷軍を送ってこの乱を鎮圧し、笠原直使主を「武蔵国造」と定めました。


イメージ 1

イメージ 2


水面が高かったこの頃の北武蔵の中心地は、「さきたまの津」があった現在の行田市にあったのです。行田市のさきたま古墳群は、王族であり北武蔵(无邪志)の国造であった笠原直使主の一族の墓であり、荒川流域の赤羽台古墳群、十条台古墳群、飛鳥山古墳群の被葬者もまた、北武蔵の荒川流域の支配者であった笠原直使主の一族や関係者であろうと思います(^o^)
 
さきたま古墳群
 
イメージ 3

 
ところで、さっそく「チバニアン」に関するニュースや解説がテレビに出始めたようですが、内容はまだ2年前の報道の域を出ていないようです。新しいところでは、「弱まってきている磁力は、1000年後には0になる」と言っていましたが・・・・
 

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