2017.6.9 「塙」って?15 武蔵野台地の端(はな)6 さきたま古墳群
北武蔵の中心地だった行田市のさきたま古墳群の中にある墳長120mの前方後円墳「稲荷山古墳」から、1968年に画文帯環状乳神獣鏡や多数の埴輪などとともに鉄剣が出土し、この剣に金で象嵌された115文字の銘文が記されていたことが1978年に分かり、国宝に指定されました。
一番上が「稲荷山古墳」
国宝・金錯銘鉄剣
この銘文には、この鉄剣を作り銘文を刻ませたのは「ヲワケ臣」であり、その先祖は「オオヒコノミコト」であること、ヲワケ臣はオオヒコノミコトの7世の孫であること、ヲワケ臣の家系はオオヒコノミコトから代々「杖刀人の首(親衛隊長)」を務めてきたこと、ワカタケル王が辛亥の年にシキで即位し、杖刀人の首(親衛隊長)を務めていたヲワケ臣はワカタケル王を補佐していたことなどが記されていました。
『日本書紀』は、「欽明天皇の即位は539年」とウソを記しているので、「記紀」を信奉する学者さんたちは、「この辛亥の年は雄略天皇の在位中の471年であり、ワカタケル王は雄略天皇である」としていて、さきたま史跡の博物館の展示パネルの説明も、その学者さんたちの説に沿ったものになっていました。
けれど、雄略天皇は『日本書紀』が創った架空の人物であり、471年に実際に在位していたのは464年に即位した応神天皇(在位464~506)ですから、このワカタケル王がシキの宮で即位した辛亥の年とは、応神天皇の孫の欽明天皇が磯城で即位した531年のことであり、ワカタケル王とは欽明天皇のことなのです(^o^)。
このことについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」及び巻末の年表をご参照ください。
534年に武蔵国造の乱か起きた時に武蔵国に鎮圧の軍を送った王は、531年に辛亥の変で王位に就いていた欽明天皇(ワカタケル王)であり、その朝廷軍の将として武蔵に向かったのが、531年には杖刀人の首であった王族のヲワケ臣だったのです。ヲワケ臣は乱の鎮圧後もヤマトへは戻らず、稲荷山古墳に埋葬されていますから、武蔵へ向かった時には「杖刀人の首」を退いていたのかもしれませんね。
学者さんたちは「ワカタケル」は「若い猛々しい男」、「オオヒコ」は、「雄々しく強い男」のことだと解釈しているようですが、
これはどちらも一般名詞ではなく、「ワカタケル」は倭王・武(=応神天皇)の孫の欽明天皇、「オオヒコノミコト」は古代豪族・意富(オオ)氏一族の祖である崇神天皇の伯父の「大彦命・意富毗古命」のことなのです。
この意富(オオ)は、「大・多・太」などとも表記されていますが、『古事記』を採録したことになっている太安万侶もオオヒコノミコトの子孫で王族であり、従四位下勲五等の朝臣だったのですよね(^o^)。つまり、朝廷(支配層)を挙げて「自分たちは神の子孫である」というウソ八百の歴史書『古事記』をデッチあげたのです。
そして明治維新で権力を取り戻すと、その子孫の神祇官たちが『古事記』や『古事記伝』を根拠に「自分たちの先祖は神である」とする「国家神道」をデッチ上げ、今またその子孫が「国民会議」や「神道政治連盟」を名乗って同じことをしようとしているようです。
歴史は本当に繰り返しなのですね。「歴史に学ぶ」ということは、繰り返されてきたそのウソを見抜けるようになるということなのかもしれません(^_-)。
この鉄剣に刻まれた銘文は、それまでの私の推理が間違っていなかったことを確信させてくれました。だからこの115文字が記されている鉛筆は私にとってお宝なのです\(^o^)/。