2017.6.7 「塙」って?13 武蔵野台地の端(はな)4 飛鳥山古墳群
武蔵野台地の端であるこの飛鳥山にもやはり古墳群があったようです(^o^)。
飛鳥山1号墳
現在は旧渋沢邸の庭園内に囲い込まれているこの古墳は、幅3.8mの周溝と横穴式石室を持つ直径31mの円墳で、公園内では他にも古墳の周溝が確認されているそうですが、その位置は記されていませんでした<(_ _)>。
飛鳥山の上には大小さまざまな大きさのこぶのように盛り上がった部分がいくつもあって、それらは公園に変化をつけるためにわざわざ作ったものとは思えなかったので、昔からここにあったものなのだろうと考えたのですが、いったいそれが何なのか、何のためにあるのか分からなかったので、後で調べてみようと思って写真を撮っておきました(^o^)。
飛鳥山の上にあるこぶ
でも飛鳥山は吉宗がここに桜を植えた江戸時代からの行楽地で、ここにはいつでもたくさんの人がいるようなのに、囲われているわけでも立ち入り禁止になっているわけでもないこれらのこぶは、その上や周りをたくさんの人が歩いても潰れたり削れたり崩れたりはしなかったから今でもここにあるのですよね(^o^)。
なぜ長い間風雨に曝されたり、たくさんの人に踏みつけられたりしても形が崩れなかったのだろう?と不思議に思ったのですが、ここには古墳群があったということを知って、私は丘陵上に一面に円墳が造られていた飛鳥の新沢千塚古墳群を連想しました。ひょっとするとこれらのこぶはみな円墳なのではないでしょうか(^o^)。
丘陵の上にさまざまな大きさのたくさんの円墳が造られていた新沢千塚古墳群
これらのこぶが崩れたり潰れたりすることなくずっと形を保ってきたのは、版築工法で造られているからなのではないでしょうか。
飛鳥山の上のこぶは、新沢千塚古墳群の円墳群に比べると小ぶりなのですが、この古墳群が造られたのは古墳時代の末期の6~7世紀のようですから、もしこれらのこぶが円墳なのであれば、薄葬令が出されて墳墓が小型化した後に造られた古墳時代末期のものだからでしょう。周溝が造られていたのは大きなものだけで、時代が下ってからの小さな円墳には周溝も造られていなかったかもしれません。
飛鳥山にも古墳群があったということを知ったのは2015年1月だったのですが、この時には、私はまだ新沢千塚古墳群を見ていませんでしたし<(__)>、説明板にあった「確認されている」という他の円墳の周溝がどこにあったのかも分からなかったので、もう一度改めて飛鳥山に出かけ、そういう視点でこのこぶを眺めて「確認されている」という周溝がどこにあるのかを探してみることにしましょう。2年半前よりは多くのことが見えてくるだろうと思います♪
ところで、朝刊に「『チバニアン』きょう申請」という記事が載っていました。
今後はこのことに関する記事や解説が増えてくるかもしれませんね\(^o^)/。文部科学相が「(チバニアンと)命名されれば我が国初の快挙。子供たちが科学に興味を持ち、次代の研究者が育っていくことを期待する」と述べたと記されていましたが、これはホンネでしょうか?
科学にはカミサマの裁量が入る余地は全くありませんから、地球の成り立ちを科学的に理解するということは「イザナギとイザナミが日本列島を生んだ」というような「神話」を完全否定することになりますよね。
これは非科学的で荒唐無稽な神話を歴史として次代の子供達にすり込もうとしている「日本会議」や「神道政治連盟」や森友学園や政府が目指している「神道に基づく教育」とは全く相容れないものだと思うのですが(^_-)。