2017.6.2 「塙」って?10 武蔵野台地の端(はな)
荒川・隅田川に沿う環状八号線を、板橋区から北区の方へと向かうと、左手に川、右手に高台があってハケが続いているのが見えるのですが、これは、荒川と多摩川に挟まれた武蔵野台地の荒川側の端だったようです。赤塚城も志村城もこの縁にありました。
この武蔵野台地の多摩川側の台地の端の崖線上には、武蔵国の国府や国分寺や多摩川台古墳群などたくさんの古墳や遺跡が並んでいるのですが、荒川側の端(はな)にも様々な古墳や貝塚や城跡などの遺跡が並んでいたのです。
これは多摩川・荒川とその周辺の低地が古代~中世にはこの台地のハケの下まで海で、交通の便が良く暮らしやすかったので旧石器時代からたくさんの人が住んでいたということなのでしょうね(^o^)。
多摩川台古墳群
武蔵野台地の北端は川越市だそうですが、今は「海のない県」である埼玉県も縄文時代には低地は海だったのです。だから当時の海岸線だった台地の端にはたくさんの貝塚が残されているのですよね(^o^)。
6000年前の岩槻市の海岸線と貝塚
天津族の東征の頃の海面を想定した「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の表紙(大阪と奈良盆地)について、「くまさん」という方が、「でたらめもでたらめ!! 表紙の地図1枚で酷さが解る」とアマゾンのレビューにお書きになっていますが、固定観念では理解できないのでしょうけれど、でたらめではないのです(^o^)。
↑の地図は岩槻市の資料館に展示してあったものですが、「くまさん」も「資料館の地図はでたらめもでたらめ!! 貝塚は偽造だ」などとはおっしゃらないでしょうね(^_-)。岩槻市でお話を伺った方々は、みなさん当然のように「ここは海だった」とおっしゃっていましたよ。
表紙の地図
4000年前の岩槻市の海岸線と貝塚
4000年前の貝塚 真福寺貝塚と貝層