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「塙」って?9 石神井城と練馬城

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2017.6.1 「塙」って?9 石神井城と練馬城

 

千葉県には生実(おゆみ)・大百(おおど)池・我孫子(あびこ)・八街(やちまた)・酒々井(しすい)・不入斗(いりやまず)など知らないと読めない地名が多いですね。これまでで一番難読だったのは匝瑳(そうさ)でしたが<(_ _)>、他にはどんなものがあるかな?と思って「千葉 難読地名」で検索してみたら↓のようにたくさんありました(^o^)

 

私は地名の読み方はいつも、信号などの地名の下に書いてあるローマ字で確かめているのですが、それはさておき、猪鼻城から落ちのびて武蔵で太田道灌の配下の「武蔵千葉氏」となって赤塚城に入った千葉自胤は、道灌と共に石神井城や練馬城の豊島氏やその一族の志村城の志村氏らと戦って滅ぼし、志村城を自らの支城にしたのですが、この豊島氏の石神井城とその支城の練馬城があったのも、現在は台下に石神井川が流れている舌状台地の端(塙・鼻)であり、志村城があったのも、現在は台下に荒川が流れる舌状台地の端(塙・鼻)だったのです(^o^)

 

現在、石神井城址は石神井公園に、練馬城址は豊島園遊園地になっていますが、舌状台地の端(塙・鼻)であるここでもやはり、縄文遺跡や貝塚が発見されていますから、整地される前には古墳もあったのかもしれません(^o^)

 

石神井城址(現・石神井公園)

 

池淵遺跡(現・池淵史跡公園)

 

練馬城址(現・としまえん遊園地)

 

尾崎遺跡(現・春日小学校)

 

同じ頃に佐竹氏がいた佐竹城も、常陸太田市の「鯨が丘」と呼ばれる舌状台地の端にありましたし、その佐竹氏が水戸に移って造った水戸城も、やはり同じような標高20mの舌状台地の端(塙・鼻)にありました(^o^)


水戸城の大手橋 城はこの台地の上にありました。

イメージ 1


台地のすぐ下には那珂川が流れています。

イメージ 2

私の歴史探訪は、最初は『常陸国風土記』に記されていた場所や、たまたま新聞や本や地図などで知った日帰り圏にある古墳や遺跡や神社などをランダムに見に行っていたのですが、その数が増えるにつれてだんだんにどこがどこだったか混乱するようになってきてしまいました<(_ _)>。関東にあるそれらのものは、みな似たような場所にあったのです。

 

これはつまり、日本列島に人が暮らすようになった旧石器時代からずっと、人は一番暮らしやすい所を選んで住んでいたということであり、その「暮らしやすい場所」というのは、その時代には遠浅の海に面していた洪積台地の端(はな・鼻)であり「塙」だったということなのでしょうね(^o^)

 
 

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