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「塙」って?8 小弓城と馬加(まくわり)城

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2017.5.31 「塙」って?8 小弓城と馬加(まくわり)城

 

千葉氏宗家の猪鼻城は、一族の馬加(まくわり)城主・馬加康胤、小弓(おゆみ)城主・原胤房らに攻められて落城したそうですが、「おゆみ」といえば、少し前に知人の叔母さんが千葉県の「おゆみ野」にいると聞いて、地理音痴の私は「それ、どこにあるの?」と聞いたことがありました(^o^)。「おゆみ野」は「小弓野」かな?

 

地図を見て「おゆみ野」は千葉市中央区生実町のことだと分かったのですが、「生実」と書いて「おゆみ」と読むのですね。知らないと読めないから駅名は平仮名にしてあるのでしょう(^o^)。それでは「小弓」はどこにあるのだろう?と思ったら、この「生実」が「小弓」のようです。

 

加曾利貝塚博物館で貰って来た「千葉市埋蔵文化財調査センター」のリーフレットを見て、このセンターは「生実町」にあることが分かったので、行ってみたいなと思って地図を見たら、このセンターは生実町の「小弓城址」にあるようなので、「生実=小弓」であることが分かったのです(^o^)


イメージ 1

 
 この地図を見ると、生実町には「小弓城」と「生実(北小弓)城」の二つの城址があって、小弓城の台地の下には大百(おおど)池、北小弓城の台地の下には生実池という大きな池があるようですし、貝塚も縄文遺跡も古墳もあるようですから、ここも猪鼻城や赤塚城や志村城とよく似た地形のようです(^o^)
 

大覚寺山古墳・大百(おおど)池・森台貝塚

 
イメージ 2

 

大百(おおど)池の東側の台地上には「城ノ台遺跡」があり、ここからは旧石器時代から近世まで各時代の遺跡や遺物が出土しているそうで、ここは赤塚支谷と泉谷津とが分岐する河口の、周囲が険阻で孤島のようになった標高28mの舌状台地なのだそうですが、地図で見ても地形がよく分からないので、実際に見に行って埋蔵文化財調査センターで資料を収集してきたいな~♪

 

誰かの眼や、その人の見方で見て書かれた地形の記述には「私が知りたいのはそこじゃないんだけど・・・・」というような隔靴掻痒の感があるのですよね(^_-)

 

「泉谷津」という地名は地図にはないのですが、ここに「泉谷津」という地名があるのであれば、古代~中世にはここに津(港)があったのかもしれませんね(^o^)大百(おおど)池が津だったのでしょうか?古い地名や字名も知りたいな(^_-)

 

すぐには行けないのでとりあえず調べてみると、小弓城は猪鼻城の支城として造られ、応永年間(13941428年)に千葉兼胤の弟の原四郎胤高が居城して以来原氏累代の城となっていたそうですが、後に谷津を隔てた台地上に生実城(北小弓城)を築いて移転し、小弓城は廃城になったのだとか・・・・ でも、ここに二つの城址があることについては、いろいろな説があって確実なことは分かっていないようです。

 

標高を見ると、小弓城址のある台地より北小弓城址のある台地の方が10mくらい低いようですから、ひょっとするとこの移転は、海退によって泉谷津が港として使えなくなって不便になったので、10m低いウォーターフロントの北の台地へ移ったということなのかもしれません。すると生実池が新しい津だったのかもしれませんね。これはまだ現地を見ていないので、地図からの推理ですが(^_^.)

 

それでは馬加(まくわり)城はどこにあったのだろう?と調べてみると現在の「幕張」にあったのだそうです。総武線の電車に「幕張」と書いてあるのを初めて見た時、私は「幕張って何だろう?地名なのかな?イベントのテントのことなのかな?」と思ったのですが、この奇妙な地名は、元は「馬加(まくわり)」だったのですね(^o^)

 

馬加城址には、「幕張ハウス」という巨大なマンションが建っていて、開発によって馬加城の遺構は完全消滅してしまったようですが、この馬加城があったのも花見川と浜田川とに挟まれた舌状台地上だったそうですから、たぶんここにも縄文遺跡や貝塚や古墳があったのでしょうね。猪鼻城も馬加城も小弓城も、赤塚城も志村城も、みな海に面した舌状台地の端(塙)に造られていたのです。


馬加城は猪鼻城の北西、小弓城は南東にあったのですから、猪鼻城は挟み討ちにされて落城したのでしょうね(T_T)
 
 
 

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